奥武鉄道の路線のうち距離にして49%、393.0kmは私鉄の奥羽越鉄道によって建設、または計画されて後に奥武鉄道によって完成された路線である. 2017年現在日本の私鉄で営業距離400kmを超える私鉄は奥武鉄道(794.1km、第二種鉄道事業者区間を入れると802.7km)と近畿日本鉄道(497.8km、第三種鉄道事業者区間を入れると555.3km)、東武鉄道(463.3km)、名古屋鉄道(444.2km)のみであるから、大都市圏の大手私鉄ではなくあくまで地方私鉄である奥羽越鉄道が如何に巨大な私鉄であったかが分かるだろう.

 

奥羽越鉄道の生い立ちを語る上で欠かせないのは戊辰戦争(会津戦争)と福島県の誕生、そして福島事件に連なる一連の流れだろう. 幕末の会津の悲劇の発端の一つは、会津藩主である松平容保が徳川政権の京都守護職として京都の治安維持を担っていたことである. 新撰組を組み入れるなど強硬な手段で尊王攘夷派の排除を試みた容保は鳥羽伏見の戦いで徳川軍が敗れると慶喜とともに江戸に逃れるが、1868年に江戸が開城され慶喜が水戸に引くと薩長軍の攻撃の矛先は容保に向けられるようになり、会津藩は東北諸藩と組んで奥羽越列藩同盟を結成、当初は同盟に守られつつ新政府に罷免を求める方針に徹する. しかし新政府では会津藩の取り潰しを決定しており、これに会津藩が反発、新政府の鎮撫使が仙台藩士に切られたことも契機となり会津戦争が勃発してしまった. 戦争に際しては兼ねてからの会津藩の重税に苦しんでいた農民の中には新政府軍を歓迎したものもあるというから、全経過を通して「会津対薩摩長州」の戦いであったというわけではない. しかし、戦後の会津地方には現代に至るまで薩摩長州に対する遺恨が強く残っていることはよく知られているところである.

 

会津戦争で会津藩は敗北、明治2(1869)年の太政官令で現在の福島県域は陸奥国から分離されて西側が岩代国、東側が磐城国とされる(そうした政治的経緯もあり旧会津藩領内には新政府から押し付けられた感のある「岩代」を冠した駅名はほぼ皆無である). そして明治4(1871)年の廃藩置県で現在の福島県域には西に若松県、中央部に二本松県(ただし設置後12日で県庁は二本松から信夫郡福島町に移動している)、東側に磐前県が設けられ、5年後の明治9(1876)年にはこれら3県が統合されて現在につながる第二次福島県が成立している. この際に旧会津藩領であった越後国岩船郡や蒲原郡の土地は新潟県、村上藩、新発田藩などに移管されてしまっており、阿賀野川に沿った藩図の多くが県境で分断されることになってしまった.

 

そんな混乱期の会津に福島県令として圧政を敷いたのが有名な三島通庸だ. 薩摩からやって来た彼は明治15(1882)年2月に福島県令に就任するとまもなく会津盆地から北、南、西の三方に通じるいわゆる「会津三方道路」の建設を計画、そのために15歳から60歳の男女を定期的に人夫として差し出させるか人夫賃をとるという圧政を敷く. 当然会津地域の住民は猛反発するが、三島はかつて会津戦争の交戦相手であったはずの旧会津藩士らを懐柔して会津戦争後貧困に苦しんでいた彼らに土地を与え会津帝政党の結成を認める. 会津の人間が三島に擦り寄る士族、反発する庶民、そして三島に擦り寄るのを良しとしない貧困士族の3つに分裂し、会津帝政党と自由党が衝突を繰り返す. そしてこれは同年夏にも福島事件として有名な弾圧事件に発展するのだ.

 

こうした混沌とした時代の、誇りも生活も何もかもが失われた会津地方で、反三島派の一部士族階級が結束し、政府に頼らずに会津の都市基盤を再興するべく立ち上げたのが、まさしく明治15(1882)年誕生の奥羽越鉄道である. 会社設立への背景には、会津戦争後の会津地方の困窮、旧藩領の分断、さらには新生「福島県」の県庁が最大の人口を抱えていた若松城下ではなく福島町に置かれたということも無視できない. 実際後に福島県下で最初に市制施行したのは若松市(明治32(1899)年、3万448人)であり、その次が福島市(明治37(1904)年、3万63人)であった. 会津藩の藩士としては最大の城下町である若松が県都とならないのは新政府による冷遇策であると断じ、若松の地政学的地位を高めるべく独自のインフラ建設を進めることを社是として掲げたのである.

 

とはいえ土地を奪われた当時の会津藩士らに鉄道建設の資金が集められるわけもなく、実際には明治6(1879)年に小荒井(明治8年に村合併で耶麻郡喜多方町になっている)で操業を始め会津地方における器械製糸の先駆けとなっていた小荒井製糸場からの出資や薩長藩閥政府に密かに反感を抱く東北各地(文字通りかつての奥羽越列藩同盟地域)の華族、士族からの出資を受けることになった. 福島事件は東北地方には「薩摩から来た県令が会津を弾圧した」と映っていたこともあり、皮肉にも凄惨な弾圧事件を反動力としてみるみる間に奥羽越鉄道に対する出資が集まり、気づけば役員数も10人を超え、出資元を広げ過ぎた副作用として計画路線も無制限に広がるという収集のつかない事態に陥っていた.

 

会社発足から1年が経ちようやく第5回の役員会で決定できたのが第1期線としての若松城下~坂下~喜多方間とそこから”同時に建設を開始する”ものとした若松城下~白河城下間、若松城下~郡山間、若松城下~新発田(または新潟)間、若松城下~米沢間であり、第2期線として”速やかに測量を開始すべき”とした白河城下から独自の路線で東京市内までと、米沢から山形を経て秋田まで、そして米沢~山形間いずれかの地点から日本海側に出て秋田までであった. この計画路線の壮大さを見ても、奥羽越鉄道がいかに"スポンサー"の幅を広げ過ぎていたかが垣間見える. 

 

ところで、江戸期にはすでに会津盆地から5方面に抜ける街道が整備されていた. それぞれ若松城下と新発田とを結ぶ越後街道、若松城下と米沢とを結ぶ米沢街道、若松城下と二本松とを結び会津と奥州街道とを連絡する二本松街道、若松城下と白河城下とを結びやはり会津と奥州街道とを連絡する白河街道、そして若松城下と今市(現・日光市)とを結ぶ下野街道である(呼び名は全て会津地方から見た呼び方). そして三島通庸が通させた会津三方道路は、この内越後街道、米沢街道、下野街道に概ね並行していたものの、下野街道では途中楢原宿(現在の下郷町)までのルートが山一つ分ずれている他、越後街道でも塔寺から野沢に抜けるルートが従来の鐘撞堂峠、束松峠ではなく藤峠であり、米沢街道に至っては喜多方市内から先のルートが全く異なるなど、従来栄えた宿場を衰退させかねないものであり各所でトラブルの元となっていた. 奥羽越鉄道ではまず第1期各線を建設するにあたり、これら旧来の街道筋を意識しながらも短期間での建設を行うために建設費を極力少なくする方針でルート選定が行われた.

真っ先にルートが決まったのが先述した若松城下~坂下~喜多方のルート. 会津地方の行政、政治の中心地である若松城下を出て越後街道に沿って旧宿場町である坂下を経由し会津の小さな商都として発展しつつあった喜多方までを結ぶルートは、地形上の制約もなく経済的にもそれぞれ異なるバックグラウンドを持つ都市と都市とを有機的に繋ぐルートとしてほぼ異論のないものと目された(後年岩越鉄道が若松~喜多方間を塩川経由の短絡ルートで結び若松~喜多方間の所要時間で劣ることになってしまうのだがそれはまだしばらく先の話である).

 

これについで計画決定されたのが若松城下から旧白河街道に沿って白河城下までと、喜多方から大峠を超えて米沢までであり、それぞれ奥鉄南線、奥鉄北線と命名された. 奥鉄南線の計画に当たって第一の障壁となったのが若松城下の東側に聳える山地帯である. 旧来の白河街道はこれを滝沢峠と沓掛峠、ないしさらに古い時代には南の背炙山を越えて横断していたが、鉄道ではそんな超急勾配を設けることはできないため、若松城下を出てから金堀、赤井と旧宿場町を連絡しつつもその前後で大幅に遠回りをしてトンネル区間を含む長大なオメガループを重ねて描くこととなった. 結果としてかつて白河街道、二本松街道(上街道)の滝沢本陣があった地区を迂回する線形になってしまい、地元では鉄道反対運動が展開されたという. 会津湊から赤津にかけては当時から猪苗代湖畔の将来的な観光開発を予定していたという. そのために路線もわざわざ湖岸に寄せて敷かれたというから当時としては先見の明があると称えたいところであるが、実際にはさしたる観光開発も行われず、単に所要時間を延ばすだけになってしまっているのが滑稽だ. 結果として新宿から会津若松に向かう特急列車からも猪苗代湖が見える区間ができたことにだけは歓迎の意を表したいのだが、この路線湾曲のために旧宿場町の原宿には鉄道が来なかったのである. 路線は三代と勢至堂の間で中央分水嶺の峠である勢至堂峠を越えなければならず、勢至堂峠を越えると一気に標高を下げるため江花宿の付近には大規模なループ線が設けられる計画となった. 長沼から先本来の白河街道は低い山地を次から次に飛び越えるように小さな峠を繰り返して南下していくが、これをそのまま忠実にトレースしては建設費がかさむ上に山に挟まれた土地故に将来的な人口増加も見込めないとして、奥鉄南線は長沼より南側で大幅に東に迂回し、旧街道とは異なるルートを南下して白河に至る.

 

奥武北線と命名された米沢街道ルートは、その全ての区間が旧来の米沢街道ルートとは合わないはるか西寄りのルートで決定された. 一つには坂下、喜多方と伸びた路線から延伸する計画のため必然的に塩川宿から北東に折れる旧米沢街道に沿わせるのは無理があったというのもあるが、会津三方道路の米沢ルートが旧来の米沢街道とは大きく異なる大峠経由で開通したため、当時としては旧街道に比べて規格の高い道路である会津三方道路を鉄道資材の搬入路として使用するため、このルートになったとのことである. 奥鉄北線のルートは喜多方を出るとそのまま北上し、上の山の東側の谷筋に入る会津三方道路米沢ルートを東に見てそのまま熱塩まで北上、そこから大桧沢山と大森山の北側、堂前沢の沢筋に沿って東進(現代の大峠トンネルと旧会津三方道路の間にあたる)し峠をトンネルで越えた上で三方道路に再び合流、入田沢を経由して置賜地方に降りていくという計画であった. このルートに対しても旧米沢街道筋からは反対の声が挙がったが、奥羽越鉄道自体が旧米沢街道筋ではなく喜多方町内から出資されていたということもあり、計画自体は短期間でまとめられたという.

 

奥鉄南線、北線の途中から分岐するように予定されたのが奥鉄東線と命名された郡山ルートと、奥鉄西線と命名された新発田/新潟ルートである. 若松と郡山を結ぶルートとしては旧来からの二本松街道と安積街道を連絡するルート(現在のJR磐越西線に一致する)があるが、全てのルートに新線を設けるのは時間と費用がかかるため、旧街道とは全く一致しないルートで奥鉄南線の三代から分岐し御霊櫃峠を越えるルートが計画された. そして最後に計画がまとまったのが奥鉄西線とされた新発田/新潟ルート. こちらは坂下を出た先で北西に分岐し、峠の連続する旧越後街道を避けるように阿賀川に沿って山都に至り、再び南西に進路をとって野沢に抜けるルートが決定されたのだが、兼ねてより会津三方道路の藤峠新ルートに強い反発を示していた片門、天屋、本名の各宿場では猛烈な鉄道反対運動が展開され鉄道工事が始まれば阿賀川の堰を切って工事を妨害するといった脅迫もなされたため、計画は後に一旦白紙化されてしまった(実際この時期天屋、本名の宿場では旧街道の束松峠に新たに洞門を掘るなど、会津三方道路によって旧街道の交通がなくなるのを必死に防ごうとした跡が見受けられる).

 

第1期線の中心部である若松~坂下~喜多方間に馬車軌道が開通したのが会社設立6年後の明治21(1888)年、翌年には蒸気機関車を導入して本格的な鉄道運転が始まった. その後4年に亘る工事の末に若松東側の峠を越えるオメガループ線が完成し、明治25(1893)年には奥鉄東線として計画されていた郡山~若松間のうち、浜路~若松間が完成する. 中央分水嶺を超える御霊櫃峠のトンネル工事も開始され、郡山~浜路駅前間には乗り合い馬車が運行を開始し、暫定的な形ながら日本鉄道線と会津地方を結ぶ記念すべき初の公共交通となったのである. 路線名も計画名の奥鉄東線ではなく(まだ郡山まで開通していないにもかかわらず)「郡若線」と銘打たれ、若松では華々しく開業式が執り行われた. さらに暫定的ながら郡山側を上りとしたため、鉄道としては盲腸線の盲端であり都市部の駅でもない浜路駅が起点というおかしなことになっていた(そしてそれは現在でも変わらない).

 

計画ではこの後浜路からの御霊櫃峠トンネルと三代からの勢至堂トンネルを一気に掘り進み若松から白河、郡山までの路線を開通させるとともに奥鉄北線の工事開始に取り掛かる予定であった. そう、計画では….

 

しかし明治27(1894)年、日清戦争が勃発する. そして一気に鉄道資材の調達は困難を極めたのである. さらに悪いことに、日清戦争に伴う工事の遅れで奥羽越鉄道の鉄道建設が滞る間に終戦直後の明治30(1897)年には岩越鉄道が郡山から若松に至る鉄道を起工、明治32(1899)年にはとうとう、郡山から中央分水嶺の中山峠を穿ち猪苗代から先では北廻りの旧二本松街道下街道ルートを経由して若松までの鉄路を完成させてしまったのである. 急峻な御霊櫃峠をゆっくりと歩む馬車と浜路からの鉄道を乗り継いでの郡若線ルートは、開通からわずか6年にして郡山と会津盆地とを結ぶ公共交通の主役の座から引きずりおろされてしまったのである.

 

とはいえ奥羽越鉄道も負けているわけではない. この間、岩越鉄道の破竹の勢いでの建設を見るうちに奥羽越鉄道としては御霊櫃峠と勢至堂峠の”二兎”を追っていてはタイムアウトになると判断、持てる全ての資力を投じて白河までの路線を優先的に開通させ、会津地方から東京までの所要時間で岩越鉄道に勝つことを最優先目標に掲げるようになる. そして郡山から建設が始まった岩越鉄道線が若松に到着する1年前の明治31(1898)年には勢至堂トンネルを完成させて計画の奥鉄南線にあたる白河~三代間を全通させ、改めて若松~白河間を磐岩線として開業、三代から分岐して浜路までの郡若線を支線に格下げして、さらには磐岩線の列車が走行し易いように三代駅を移設して磐岩線側をスルー走行に、それまでスルー走行していた若松~浜路間直通列車を三代駅でスイッチバックする形に切り替えてしまうのだ.

 

その後奥鉄北線、西線の建設は結局遅々として進まず、西線は同様のルートで岩越線が先に開通してしまったため、免許すら取得せずに終わってしまった. 奥鉄北線は明治最晩年の明治45(1912)年に北側から建設が始まり、大峠鉱山の鉱山鉄道として米沢から奥入田沢、大峠鉱山方面が「米沢線」として開通するが、大正11年の改正鉄道敷設法で別表第26号に「山形縣米澤ヨリ福島縣喜多方ニ至ル鐡道」が規定されると、奥鉄北線のルートはそのまま国営鉄道としての建設が決定してしまう. 奥羽越鉄道としては当然抗議するがもとより会津藩士の会社である奥鉄の主張が政府に聞き入れられるはずもなく、昭和13(1938)年には喜多方から熱塩までの南側路線が日中線として開業する. その後も大峠の南側は官鉄線、北側は奥鉄線という状態が続いて終戦を迎え、終戦後10年経過した昭和30(1955)年になってようやく喜多方から大峠までの路線免許を新たに取得、昭和32(1957)年に2カ所のループ線を含む喜多方~奥入田沢間を開通させて「岩羽線」を全通させるのであった(この時にそれまで磐岩線に含まれていた会津若松~喜多方間も岩羽線に組み込まれている).

 

さて、当初の予定で第2期線とされた経路のうち、白河から南側では大正10(1921)年の「奥鉄本線」黒羽~白河間開業を皮切りに奥羽越鉄道は破竹の如く南進を続け、昭和9(1934)年に浦和に到達して中山道電鉄と合併、新宿までの乗り入れを果たすのは以前の記事でも触れたとおりである. 政府に干された会津の有志が独自の力で東京に直結する鉄路を手に入れるため、実に52年を要したのである.

 

奥鉄西線とされた越後街道ルートはルート選定で手間取る間に岩越線が先に開通してしまったために果たせず、また当初計画で第2期線に含まれていた米沢から北の東北地方各地への延伸は日本鉄道が早くも明治33(1900)年には現在の奥羽本線赤湯までの路線を完成させたことや羽越線の全通(大正13(1924)年)により果たせずに終わってしまった.

 

余談であるが、郡若線の御霊櫃峠には西側からトンネルが掘り進められたものの開通に至らず、堀りかけたトンネルは太平洋戦争中機関車の避難場所として整備されたという. とはいえ、よく知られているように会津若松は終戦まで空襲を受けずに済んでおり、開戦当初から攻撃目標として機関車の避難訓練を繰り返していた会津若松機関区は無傷で終戦を迎えたのである.

 

当初の予定路線が全て完成していれば会津若松を中心に東西、南北に十字架の如く伸びる鉄路が都内から秋田までを結んでいたことになるのだが、現代に残されたのは新宿から会津若松までの路線と会津若松から喜多方を経て米沢までの超ローカル線、そして三代から浜路までの盲腸線だけである. 浜路から郡山までは現在でも郡若線の列車に接続する形で奥武鉄道バス郡若線が1日4往復運転され、趣味人には磐越西線/磐越道に対して郡山と会津若松を結ぶ”もう一つのルート”として愛好されているとか. 昭和9(1934)年に中山道電鉄と対等合併すると新たに誕生した奥武鉄道はもはや会津藩士の会社とは言えない集合体になり、元々会津の利益のための会社であった奥鉄もいつの間にか関東大手私鉄の仲間入りを果たしていたのであった.

​奥武線 鉄道小噺 第5回

​会津藩士の夢見た鉄道