​奥武線 鉄道小噺 第3回

​日本鉄道に反旗を翻した中山道電軌

其之二 ルートが揺れ動いた蕨から浦和

前節「日本鉄道に反旗を翻した中山道電軌 其之一 板橋におこった鉄路とその末路」で触れたように、現代の中山道線の前身である中山道電軌は、日本鉄道の上野~熊谷間新線が経由しなかった旧中山道板橋宿の商人たちが中心になって、同じく日本鉄道に通過された蕨宿の商人を取り込んで設立された会社である.

 

蕨宿は日本橋、板橋宿を経て江戸を出た中山道が戸田川(荒川)を渡り最初に到達する宿場であった. 上方から見れば戸田川の渡しを目前にした宿場であり、増水時や夜間には川留めになるため、大きな川を目の前にした宿場としてご多分に漏れず、宿場として繁栄し、反面強引な客引きでも知られていたという(同様の事例に、関東地方で言えば多摩川を前にした川崎がある). 天保14年のデータでは宿内人口2223人とあり、同時期に宿内人口2448人であった板橋宿とほぼ同程度の規模を誇っている. 名前については諸説あるが、藁を火で炊いたのを見て源義経が名付けたという説をとっても、蕨が自生する地であったという説をとっても、戸田川の氾濫原に開けた湿地帯、商業的に繁栄しながらも自然豊かな土地であったことが偲ばれる.

 

明治16(1883)年に日本鉄道が上野~熊谷間に鉄道を通すと、路線は蕨宿の東に1kmばかり離れた場所を通過したものの駅は設けられず、当初設けられた駅は上野、王子、浦和、上尾、鴻巣、熊谷のみであった. そこで蕨宿内には日本鉄道への停車場設置請願を掲げる一派と、独自の鉄道路線を引こうとする一派が現れ、後者に板橋宿の商人たちが働きかけて中山道電気軌道が明治17(1884)年に発足する.

 

中山道電軌は将来的な目標としては日本橋から熊谷への鉄道を目指したが、当面の目標として巣鴨から鴻巣までの開業を急いだ. 板橋宿で川越街道上板橋宿への利便性を確保するため中山道からやや西に逸れて走行した線路は西板橋(後の板橋栄町→現在廃止)の先で北に折れるとかつては野原の広がっていた前野、蓮沼根葉(はすぬまねっぱ、後の蓮根)、舟渡を経て戸田川(荒川)を渡り、埼玉県に入った. 東京と埼玉の府県境をまたぐと戸田川岸、本戸田と停車し蕨宿に到着する. 当時の中山道は現在の国道17号線東側を進んでおり現代でも沿道に残る古民家にかつての蕨宿の名残を見ることができるが、中山道電軌線は宿場の西側に並行するように線路を敷き、宿場中央付近に蕨中央電停、そして北詰に上蕨電停を設けた(上蕨は後に、昭和41年の住所変更に合わせて錦町に名を変えて今に至る. この錦町という名前、蕨の西部に位置するので「ニシ」なのだが、ただニシだとあまり格好良くないので一文字増やしてニシキとしたという. 何ともいい加減なものである).

ここで一癖ある「蕨中央」の由来であるが、当初計画では「蕨」としたかったところ、巣鴨地区の土地買収に手間取ったり戸田川架橋の準備が整わなかったり、また後述する浦和以北のルート問題が噴出したりで路線の開通が遅れる中日本鉄道線に蕨停車場を設ける話が進んでしまい、なんと中山道電軌の荒川以北が巣鴨~鴻巣間で開通する直前の明治26(1893)年7月、現在のJR蕨駅にあたる蕨停車場が開業してしまうのだ. そこで先に「蕨」の名を取られた中山道電軌は、こちらが宿場のど真ん中と主張せんばかりの「蕨中央」を冠して同年9月に開業したのである(荒川鉄橋の完成はさらに同年末). 当時の木製の駅名票にはあとから付け加えた「中央」の字が歪な位置にやや小さく書き添えられていたというからどこか滑稽でもある(一方後述する浦和中央電停は構想段階からの電停名であるため、4つの文字が均等に表記されていた). 蕨宿は中山道電軌開業に大きく貢献したこともあり、荒川架橋完了後の列車本数は日中巣鴨~舟渡までで急行(舟渡には停車せず)2本+各駅停車8本/時に対して荒川を渡ってから上蕨まで急行(蕨中央に停車)2本+各駅停車6本/時(うち各駅停車2往復/時は上蕨始発)と、現代の通勤電車と比べても遜色ない本数が確保されており、蒸機牽引の列車で本数も少なかった日本鉄道の蕨停車場に圧倒的な差をつけての”電車”開業となった.

旧中山道に沿って蕨宿を出ると、浦和宿、大宮宿、上尾宿と続いた. 蕨から坂を上り台地上に登った場所に位置する浦和は今でこそさいたま市の旧浦和エリアのみで人口56万と中堅かそれ以上の規模の都市に育っており少なくとも埼玉県内では川口市と一位二位を争う人口規模であるが、江戸期の中山道浦和宿は決して大きな町ではなかった. 天保14年の宿内人口は1230人と板橋や蕨に比べるとおよそ半分程度の規模であり、宿泊地としてよりむしろ戦国時代から続く市場町として賑わっていたようである. 浦和の地名は「浦曲(うらわ)」から来るともされ、かつて浦和東部にまで入り組んでいた奥東京湾の入り江跡や荒川周辺の低地には湖沼が多く残り、江戸期の中山道では蕨宿や浦和宿において浦和近隣の沼で採れたうなぎが旅人に振舞われたという. また、相模の大山から府中を経て春日部に抜ける府中通大山道の南廻りルートが荒川秋ヶ瀬の渡しを経て浦和宿で中山道に合流しており、浦和宿はその追分であった. この府中街道大山道は途中新座や秋津ではなく清瀬を通っているという点を除いてほぼ現在の武蔵野線府中本町~南浦和間に並行しており、現代の浦和が武蔵野線を通して府中、多摩地区と直結しているのは偶然とはいえ興味深い.

 

浦和宿にとって一つの転機となったのは明治2(1869)年の浦和県庁誘致成功であろう. 当時の浦和県は現在の埼玉県内京浜東北線沿線に加えて板橋区全域と北区、練馬区、豊島区などの一部を管轄する小さな県であったが、その後廃藩置県や府県統合を経て明治4(1871)年に埼玉県が発足すると、正式な県庁所在地候補地であった岩槻に適当な建物がないことで浦和の県庁が存置され、後に正式な県庁所在地に指定されて今日に至る.

 

明治初期には埼玉県内で圧倒的な規模を誇っていたのは旧城下町である川越や岩槻であり、当時浦和の県庁所在地というのは岩槻に適当な建物がないことによる完全な棚ぼた県庁であったわけだが、埼玉県発足後12年となる明治16(1883)年には日本鉄道の上野~熊谷間開業と同時に浦和停車場が開業し、県都の出入り口が一応、出来上がっていた.

 

中山道電軌の開通に際して浦和の住人は特段の誘致活動を行っていたわけではないが、上蕨を出た路線は六辻、浦和坂下を経て旧中山道の西側で台地を駆けあがり、浦和中央に至った. この「浦和中央」という電停名、10年も先に日本鉄道の浦和停車場が開業しており日本鉄道との差別化を図るため宿場の中央付近に位置することを強調したものである. 中央電停は旧中山道浦和宿の中心部に近い北足立郡役場前に置かれ、埼玉県庁舎とはむしろいくらか離れていた. 会社運営に直接関わる蕨宿と異なって宿場内に電停は一つしか設けられなかったが、日本鉄道の停車場よりも宿場中心部に近接していること、また巣鴨まで日中1時間あたり急行2本(浦和中央に停車)+各駅停車4本という本数も概ね満足のいくもので、好評をもって受け入れられ通勤の公務員達には「中央駅」の名で親しまれたという. なお宿場の外にはなるが、浦和中央電停から北で旧中山道上に入り、併用軌道で日本鉄道線を越えた先に元府趾(もとふと)、領家(現在の北領家駅)の両電停が設けられた. 元府趾とはかつて律令時代に現代の浦和から大宮にかけて広がっていた高鼻郷の政庁があったことに因む地名だが、「趾」の字が一般的でないこともあり後に「本太(もとぶと)」に書き換えられ、後述するルート変更の際にも「本太」が駅名として採用されている.

 

さて、まず蕨~浦和地区の鉄道開通までを一気に述べてしまったが、話を開通前夜に戻す. 実は中山道電軌線開通の際最もルートに関してもめたのがこの浦和中央電停から先であった. 当初中山道電軌の発起人となった板橋商人達が出した案では、中山道電軌線は上野、王子経由の日本鉄道線と異なり旧中山道の宿場を忠実になぞることを社是としていたため、当然浦和の次は大宮、そして上尾というルートを想定していた. しかしこれに反発したのが埼玉県内の事情に明るい蕨の商人達である. 蕨から参加した役員たちは浦和から北西に進路を変更して与野を経て川越に至るルートを主張した.

 

現在浦和、大宮などとともにさいたま市の一部になっている与野地区はこれもまた旧宿場町であり、古くは関東各地から鎌倉に向かういわゆる「鎌倉街道」の脇往還において、また江戸期には前記した春日部~府中~相模大山を結ぶ府中通大山道の北廻りルート(羽根倉道ともいい、羽根倉の渡しで荒川を渡っていた)において、宿場町として機能していた. あくまで脇街道の宿場町ではあったが、幕末から明治初期にかけては浦和や大宮より宿内人口も多く、日本鉄道の浦和駅や大宮駅が開業した後の明治20(1887)年の記録でも浦和町の人口3524人、大宮町の人口2860人に対して与野町は3877人と、この地域においては無視できない存在であり当時の大宮の人達はちょっとした大きな買い物は与野で行っていたという言い伝えもあるという.

 

さらにその先荒川をもう一度渡って川越に至れば、当時の川越は言うまでもない埼玉県最大の商都であり、また旧城下町としてこの付近では最も都市基盤整備の整った町の一つでもあった. 明治5年に埼玉県では初めての国立銀行である第八十五銀行が設けられたのも川越であるし、大正11(1923)年に埼玉県内で初めて市制施行に至ったのも川越だ.

 

そんな与野や川越に比べると、当時の大宮は明らかに見劣りがした. 旧大宮宿はもとより中山道の宿場町としては比較的後発であり、江戸期に入る直前に浦和と上尾の中間地点にあった馬継場から昇格して宿場になっている(その点、鉄道においても浦和駅と上尾駅が先に開業し大宮が後発の駅としてスタートしたのは偶然とはいえ歴史を繰り返しているようである). 宿場となった後は順調に発展して中山道の宿場町、氷川神社の門前町、また中山道と府中通大山道春日部方面の追分として発達するが、天保14年のデータでは宿内人口1508人と、やはり板橋や蕨に比べると随分と小さな宿場であった. ただし脇本陣の多さは特筆すべきで、宿内人口1000人台で脇本陣を9件も抱える宿場は例外中も例外、江戸から歩いてちょうど1日分という距離が宿泊地としての機能を強化し、町の規模からすると不釣り合いなほどの宿泊機能を発達させたものだという(その点、50万都市となった現代においても全国の他の50万都市には類を見ないほどの、都市規模からすると過大な鉄道拠点を擁しているという点でどこか現代に通ずるところはある). 明治に入ると中山道の終焉とともに町は衰微し、浦和駅や上尾駅の開業に遅れること2年後の明治18(1885)年、大宮住民の熱心な鉄道誘致に加えて当初東北本線が経由する予定であった岩槻による鉄道忌避運動などもあり、浦和の県庁ではないがこれまた棚ぼた的に大宮に鉄道分岐点がやってきたことでようやく現代につながる商工都市としての礎を得たが、とはいえ明治20年代の当時、まだ大宮は与野と比べても小さな町であった.

 

中山道電軌の役員会では当初板橋勢の大宮延伸案と蕨勢の与野川越延伸案が拮抗していたが、蕨勢による説得が続き、最終目的地を当初予定の熊谷とするために川越から日光脇往還の宿場である坂戸宿、松山宿(現在の東松山市)を経て熊谷に至るルートが提示され板橋勢側が折れることになった(なお川越から坂戸、東松山に伸びる東上鉄道の免許が下賜されるのははるか後大正1(1912)年のことである). そこで一旦認可された浦和~大宮~上尾~桶川~鴻巣の軌道特許とは別に浦和から与野を経て川越、坂戸、松山、熊谷に至る軌道特許を取得、早速測量が始まった.

 

測量が始まって初めて与野延伸が難しいことが発覚する. 技術陣が浦和の台地と与野の台地の間にある鴻沼低地の埋め立てに難色を示したのである. 鴻沼低地とは現在の埼京線沿線に広がる低地帯だが、当時の技術ではこの場所に鉄道を通すための地質改良に時間がかかり、開業時期が大幅に遅れるとの報告が役員会に寄せられた. また、役員の中には川越に延伸するためにもう一つ荒川橋梁を設けるためにかかる費用、まだ護岸工事も不十分な当時における荒川を渡る線路の維持費用が川越延伸による運賃収入上のメリットを上回ると主張する者も出てきた. どちらも当時としてはもっともな理由であり、中山道電軌は与野、川越延伸ルートを捨てて当初予定の大宮、上尾ルートに変更、先述した元府趾や領家の電停が開業したのもある意味でその副産物であった.

 

さて、とりあえず荒川架橋、度重なる予定ルート変更、巣鴨周囲の土地取得など数々の難題を乗り越えて会社設立から実に9年の歳月を経て明治26(1893)になってようやく巣鴨~鴻巣間の開通を見た中山道電軌線である. 開通後は電車による高頻度運転が好評を博し、大正1(1912)年の東京市電直通運転開始(当初は川越板橋以南のみ)、昭和4(1929)年の庚申塚、滝野川両電停廃止と板橋駅前~巣鴨間スピードアップ、昭和7(1932)年の川越板橋~新宿間開業などを経て着実に東京と郊外とを結ぶ高速電気鉄道として成長していく.

 

蕨~浦和界隈に絞ると、次の大きな転機をもたらしたのは以前「野田から日光を目指した鉄道」でも述べた奥羽越鉄道線の南下である. 会津若松、喜多方を本拠地として官鉄と競争すべく南下を推し進めてきた奥羽越鉄道は昭和2(1927)年には喜多方から茂木までの鉄道を開業させ(ただし黒羽~那須小川間では東野鉄道の線路に乗り入れていた)、さらなる南下を目指していた. 当初は茂木から先大正9(1920)年に開通していた真岡線に乗り入れ、真岡から日光東街道鉄道本線(現在の宇都宮日光線)に乗り入れて下総境~関宿間で日光東街道鉄道の橋梁を利用してタダで大河、利根川を渡るつもりであったが、会津の会社としての官鉄との確執、奥羽越鉄道側の関宿から先野田を経由しない南進計画による日光東街道鉄道との確執など諸問題を抱え、結局は茂木から笠間を経由し筑波山の南麓を貫く鉄路を独自に開業して下総境に至ったことは以前にも詳記したところである.

 

時は大正12(1923)年、関東大震災が南関東全域を襲う. 発注していた利根川橋梁が納入されないまま不良債権を抱え当時の日光東街道鉄道の経営が傾いたことは以前にの述べたが、その後宇都宮車庫への延伸や野田町駅の移転などを行う中で資金繰りが悪化、ついに昭和7(1932)年をもって日光東街道鉄道は奥羽越鉄道に呑み込まれるのであった.

 

日光東街道鉄道を吸収した奥羽越鉄道は旧日光東街道鉄道側の反発を廃し、彼らとしては満を持して関宿からの南下を始めた. そこで奥羽越鉄道が注目したのが中山道電軌である. これまでにも奥羽越鉄道は東野鉄道に乗り入れる、日光東街道鉄道に乗り入れる(失敗する)など他社線への乗り入れによって自社列車の運行範囲を拡大する方針をとってきたが、今後都内に延伸するにあたり都内の高額な用地買収を避ける目的で中山道電軌への接続と乗り入れを画策するようになった. 折しも兼ねてから岩槻町による鉄道誘致を受けていたこともあり(もっとも岩槻町の鉄道誘致運動は直前の昭和4年に北総鉄道岩槻町駅開業として一応の解決を見ていたが)、昭和9(1934)年には関宿から岩槻を経て省線浦和駅に達する鉄道を一気に開通させてしまった.

 

これに際して奥羽越鉄道は中山道電鉄(昭和7(1932)年に中山道電軌から改称)に対して出資を見返りとした軌間変更、車体規格の大型化、軌道の一部ルート変更というあまりにも無茶な条件を提示してきた. 東京市電への乗り入れが売りの一つとなっていた中山道電鉄としてはもとより経営には困っていない上に、軌間を奥羽越鉄道と同じ1067mm狭軌に変更してしまっては東京市電に入れなくなる. 会津の片田舎の鉄道会社が提示した土足で踏みにじるような合弁の申し入れをにべもなくはねつけた. しかしそこでも奥羽越鉄道側は執念深く埼玉県の大物政治家達に手を回し、中山道電鉄線の行田から先太田ないし伊勢崎への延伸(空手形に終わる)や秩父への直通による速達化など県の喜びそうな条件を次々に提示して中山道電鉄と奥羽越鉄道の合併をお膳立てしてくれるよう迫った. 最終的に追い詰められた中山道電鉄側は奥羽越鉄道本社の会津から中山道電鉄線沿線への移転を条件として、この何のメリットもない合併を受け入れることになったのである(合併後の本社は浦和に新設された).

 

貨物輸送の観点から官鉄線にどうしても接続したかった奥羽越鉄道の希望に従い、中山道電鉄線の上蕨~領家間が廃止されて新たに文蔵、岸町、浦和、本太、南領家が設けられた(南浦和が設けられるのはより後年である). 新しく設けられた浦和駅は省線の南西隣りに位置し、連絡線で省線浦和駅の荷物積み出しホームとつながることになった. 浦和中央電停の廃止に対して地元では反対運動も起こったが、県をバックとした強制が働き、線路は一夜のうちに切り替えられたという.

 

関東大震災を契機に日光東街道鉄道は経営難が深刻化し、奥羽越鉄道による取り込みを経て消滅していく、しかしこちら浦和では関東大震災が皮肉にも新たな県都を育てるのに一役買っていた. 大正末期からたまたま県の主導による街区整理が行われかつての宿場町の周りに碁盤の目状の街区が形成されていた浦和には、震災を契機に被災した東京や横浜から人口が移住し、急速な人口増加を迎えたのである. そしてその中には画家をはじめとした文化人が多く含まれ、現代に繋がる浦和の街の礎を築いたとされている. 確かに大正から昭和にかけての古地図を見ると明らかであるが、江戸期には宿場周りの農地であったであろう場所に人工的に作られた街区が急速に市街化し、浦和という宿場町が急速に都市として脱皮する、中山道電鉄線が移設され国鉄との接続駅ができたのはちょうどそういう時期であった. 昭和9(1934)年、中山道電鉄と奥羽越鉄道が合併し新たな「奥武鉄道」の本社社屋が浦和に完成、新宿から会津若松までが一本の鉄路で繋がった年は、明治のはじめには小さな宿場町であった浦和が川越、熊谷、川口に次ぐ埼玉県内4番目の市制施行を果たした、そんな節目の年でもあったのだ.