​奥武線 鉄道小噺 第2回

​日本鉄道に反旗を翻した中山道電軌

其之一 板橋におこった鉄路とその末路

現在の中山道線を敷いたのは私鉄、中山道電気軌道である. 明治16(1883)年、華族が出資する半官半民の鉄道会社である日本鉄道が現在のJR東北本線・高崎線の一部区間にあたる上野~熊谷間の鉄道を通すと、中山道板橋宿では対抗する鉄道を通そうという機運が盛り上がった. というのも、日本鉄道が通した鉄道は旧中山道に概ね並行する新時代の交通機関であるはずにもかかわらず日本橋ではなく上野を起点としており、途中浦和までの区間では旧中山道と大幅に離れたルートを通っていたのだ.

 

板橋宿は中山道で日本橋を出て一つ目の宿場であり、東海道の品川宿や甲州街道の内藤新宿、日光街道/奥州街道の千住宿と並ぶ江戸四宿の一つとして繁栄していた. 宿場の名前は中山道沿い、石神井川にかかる板敷きの橋から取られたと言われる. 天保15年のデータで宿内人口2448人と、同年に宿内人口2377人の内藤新宿と同等の規模を有しており、宿内にある平尾の追分で中山道と川越街道が分岐する交通の要衝でもあった(そして不運なことに品川、新宿、千住と比べると現代において江戸四宿の内鉄道の拠点駅がないのは板橋のみである). なお分岐後の川越街道上にはやはり石神井川を渡る手前に上板橋宿が発達していた.

 

そんな江戸期からの「北の交通の要衝」を自負している板橋であったから、北へ向かう鉄道が上野を起点として板橋を無視した形で開通したことに少なからぬ反発が巻き起こり、板橋の商人たちが中心となって同じく鉄道に通過された埼玉県内の蕨宿の商人に呼びかけ、「中山道電気軌道」を立ち上げたのが、日本鉄道中山道ルートの開通後わずか1年である明治17(1884)年だ. 本社は当初板橋宿で旅籠を営業していた一家の自宅に設けられたが、後に板橋宿の南外れに社屋を建設している. これが会津若松に設けられた奥羽越鉄道とともに、現在の奥武鉄道を形作る二大私設鉄道の礎石となった中山道電軌板橋本社であり、私鉄一の路線長を誇る巨大鉄道会社、奥武鉄道にとって板橋は会津若松、喜多方と並ぶ故郷の土地と言える.

 

当初計画では日本橋を起点として東京市内を北上し板橋宿から戸田川(現・荒川)に架橋して蕨宿、浦和宿と通し、その後も概ね旧街道に沿ったルートで熊谷を目指すこととした. 日本鉄道と競合する路線ながら建設の許可を得るために、鉄道省管轄の鉄道ではなく内務省管轄の軌道として特許申請するのは当時の私鉄としてはよく見られた手法であるが、しかし実際にはすでに市街化が進んでいた都心部では路上さえも土地権利の取得に難航し、中山道沿道の巣鴨を暫定的な起点として板橋駅前電停付近を除く大半の区間を田畑、荒れ地の中を走る専用軌道として建設してしまった.

第一期線として開通したのが巣鴨から舟渡に至る路線で、開業は明治25(1892)年。すでに会社設立から8年が経過していた. 開通を目前に下明治24(1891)年にとげぬき地蔵として知られる高岩寺が巣鴨に移転すると巣鴨近辺の地価がにわかに上昇、起点である巣鴨電停の土地取得に手間取ったことも一因とされる. なお官鉄の巣鴨駅開業は明治36(1903)年であり、この時点で中山道電軌線の他社との接続駅は板橋駅前電停(明治18(1885)年開業の日本鉄道板橋駅と接続)ただ一つであったため、旅客流動は板橋駅前電停を中心としており、上り起点駅である巣鴨へはとげぬき地蔵参りの参拝客が少々利用する程度であったという.

 

路線は巣鴨を出ると庚申塚、滝野川、板橋駅前、板橋追分、西板橋(後に板橋栄町に改称)、前野、中台、蓮沼根葉(はすぬまねっぱ、後に蓮根に改称)、舟渡の順に停車し、途中の西板橋から支線が分かれ、左に急カーブを描いて川越街道にぶつかる位置に川越板橋電停を設けた. この川越板橋電停はその名の通り「川越街道上の板橋」の意味で、一つには川越街道上の宿場である上板橋宿へのアクセスを目的にしたものであるが、電停に併設する形で車両基地を設けてあり、支線自体が車庫への回送線としての意味合いも持っていた. この車両基地は後に車両の大型化とともに用地が拡大され、現在でも鴻巣電車区板橋支所として現役である(駅名は後述するように板橋車庫前に改称されている).

 

途中板橋追分電停はかつての中山道と川越街道が分岐する平尾追分の至近にあるが、本当は板橋宿の中心地に近いことから「板橋中央」としたかったところ、電停よりやや北にある仲宿の住人が難色を示し「追分」に落ち着いたというエピソードもある.

 

巣鴨~板橋駅前~舟渡間が開業した翌明治26(1893)年にはまず戸田川岸~鴻巣間の軌道が一気に完成し、同年中に戸田川の架橋が完了して巣鴨~鴻巣間の私鉄としてはかなり長い路線が営業を始める. 同時に急行運転が開始され、巣鴨、板橋駅前、板橋追分、蕨中央(現在の奥武蕨)、浦和中央(後に路線移転に伴い廃止)、氷川前(後に路線移転に伴い廃止)、上尾、桶川中央(現在の奥武桶川)、鴻巣に停車した. 急行電車には専用の輸入大型車両が導入され当時としては高速運転の部類に入る最高80km/hでの運転を行ったが、この大型車両が西板橋~川越板橋間の急カーブを曲がれない(建築限界に抵触はしないが脱輪を繰り返した)ため、急遽西板橋駅西方にもう一つ電停を設け、この電停から南に直進して川越板橋に至る回送線を建設した. この際に新たに設けられた電停に川越板橋の名を冠し(2代目川越板橋電停)、初代川越板橋電停はわずか1年で廃止となって車両基地の機能のみがそこに残されたのである. しばらくは西板橋~川越板橋(2代目)~車両基地間のデルタ線が存在し、同一車両がデルタ線を自在に通ることで車両の向きが逆転するのを防ぐ観点から急行形車両のみが西側の直線を、その他の車両が急カーブの線路を通るという状態が続いた. しかしこれでは非効率的でもあり、大正3(1914)年に東上鉄道(現在の東武東上線)が開通するのに合わせてこれと交差するデルタ線東側の急カーブ部分が廃止され、急行形のみならず一般車を含めた全車両が川越板橋(2代目)を通って直線線路で車庫に回送されるようになった. この大正3(1914)年には東上線上に上板橋駅が開業するが、上板橋駅よりも中山道電軌の川越板橋電停の方が上板橋宿には近かった. ちなみに東上線上に中板橋駅ができて中山道線側も電停名を中板橋に変更し相互の乗換駅となるのは昭和8(1933)年のことであり、まだまだ先の話である. この中板橋というのも、東上線の上板橋駅と下板橋駅(下板橋という地名はなく、川越街道の上板橋に対して中山道の板橋宿を指している)の間にある駅だから中板橋という、なんとも適当な命名であり、板橋に端を発する中山道電鉄(後述するように昭和7年に中山道電軌から改称)としては改称に後ろ向きだったようだ.

 

さて、話を明治後半~大正期に戻そう. 明治26(1893)年に巣鴨~鴻巣間が開通した後しばらく、中山道電軌線と他線の乗換駅は板橋駅前電停と上尾、鴻巣のみであった. それが明治36(1903)年には中山道電軌の開通後10年にしてようやく現在の山手線にあたる鉄道上に巣鴨駅が開業する. 山手線の巣鴨駅というのも当初開設予定がなかったものが経由地の変更によって急遽設けられたものであり、中山道電軌にとっては嬉しい誤算であった. この時点で中山道電軌の日本橋延伸計画はいったん白紙化されるが、大正1(1912)年になると東京都心側から伸びてきた東京市電の巣鴨線が巣鴨橋まで延伸完了し、中山道電軌との間で直通運転を開始する. それからの中山道電軌は水を得た魚のように発展の時期を迎え、巣鴨~鴻巣間の急行電車に加えて東京市電にも乗り入れ可能な小型かつ高速の新型車両を導入し、市電水道橋線の新常盤橋電停から市電白山線、巣鴨線を経て中山道電軌の川越板橋まで、直通電車の運転が始まる. さらには埼玉県内と都心を結ぶ東京市電直通電車も少ないながら運転が始まり、中山道電軌は朝夕に混雑を来すいっぱしの通勤路線として成長していく.

 

その後の中山道電軌はさらに行田(現・行田市)への延伸(大正12(1923)年)、秩父鉄道熊谷への乗り入れ(昭和1(1926)年)などと発展を続けるが、板橋界隈に限ると次の転機となったのは昭和4(1929)年の東京市電板橋線巣鴨二丁目~下板橋間延伸だろう. この東京市電板橋線は後に志村線としてさらに北上することになるが、旧中山道の南側を専用軌道で走る中山道電軌に対して、新国道上(現在の国道17号上)を併用軌道で開業し、中山道電軌の強力な競争相手となった. ここで中山道電軌側は並行する区間の電停の内庚申塚、滝野川の両電停を廃止し、専用軌道走行を生かして全列車に速達効果を持たせることで差別化を図ろうとした. しかし速達化はできたものの板橋線の開業によって市電直通枠が大幅に減らされてしまい、埼玉県内や板橋地域から東京都心部への直通サービスという点では後退を余儀なくされた. そこで兼ねてから検討されていた新宿延伸が実行に移されることになった.

甲州街道の内藤新宿は板橋とほぼ同規模であった江戸四宿の一つであることは先に述べたが、明治18(1885)年に日本鉄道の駅として新宿駅が開業したのち明治22(1889)年には甲武鉄道が開業、大正4(1915)年に京王電気軌道、大正12(1923)年に帝国電灯西武軌道線、昭和2(1927)年には小田原急行鉄道が開業し、すでに東京の西のターミナルとしての賑わいを見せていた. 板橋商人の会社である中山道電軌としては板橋から新宿に支線を伸ばしこの新たなターミナルに集まる旅客を自社線に取り入れるとともに、新宿からの旅客と都心、巣鴨方面からの旅客の結節点を板橋に設けて板橋を再び交通の要衝にしようという目論見が働いていた. 突貫工事の末昭和7(1932)年には川越板橋からの車庫回送線を南にそのまま延伸する形で新宿への支線が完成し、同時に新宿~鴻巣間での急行電車の直通運転が始まっている. これと同時に社名を中山道電気軌道から中山道電気鉄道へと改名し、将来の高速運転への覚悟を示した. また初代川越板橋電停はあらたに板橋車庫前と命名され旅客営業に復帰、板橋車庫前電停よりも歴史的な上板橋宿から遠くなってしまった川越板橋電停(二代)は、翌昭和8年に東上線の駅開業と同時に中板橋に改称したことは先に触れたとおりだ.

 

かくして新宿と巣鴨からの鉄道の分岐点となった中板橋であるが、哀しきかな、その後昭和9(1934)年に中山道電鉄が奥羽越鉄道と合併し会社運営に板橋商人たちの要求ばかりが通らなくなったこともあって中板橋のターミナル化は進まず、後に中板橋は急行も通過するようになる. そして中山道線発祥の地であるこのエリアに大きな変化を与えたのが昭和43(1968)年の都営地下鉄三田線開通である. 都電志村線にかわる都営三田線の開通は中山道線巣鴨~蓮根間に並行する高速鉄道の開通を意味した. 奥武鉄道側は猛反発し東京都との折衝が続けられたが、結果として蓮根から巣鴨までの都営三田線に奥武鉄道が第二種業者(奥武鉄道巣鴨中山道線)として乗り入れ(巣鴨以南へは通常の相互直通運転として乗り入れ)、並行路線である中山道線の巣鴨~中板橋間を廃止するという形で決着を見た. かくして、板橋商人たちが精魂こめて育て、守ってきた中山道線は、その最初の起源とも言える巣鴨~中板橋間の鉄路を失うことになったのである.