800kmを超える奥武鉄道の路線網の中で、すでに廃止された鉄路は多くはない. 奥武鉄道に合併する前に廃止された関連会社の鉄道路線としては旧上岩軽便鉄道のダムサイトトロッコがあり、奥武鉄道から切り離された後に廃止されたものとしては米沢線(現・岩羽線奥入田沢~米沢間)の貨物支線であった大峠森林鉄道線があるが、奥武鉄道の路線として開業し、奥武鉄道の路線として廃止されたのは令和4(2022)年時点で唯一徳次郎貨物線以外に存在しない. この徳次郎貨物線、宇都宮日光線の徳次郎から百目鬼まで伸びる貨物専用線であったが、旅客路線ではなかったためにその歴史が語られることは多くはない. しかし栃木県北部の鉄道史を語る上では欠かすことのできない1ピースでもある貨物路線. 今回はこの徳次郎貨物線についてその歴史を振り返ってみよう.

 

■下野電気鉄道と高原山山麓開発

高原山は現在の日光市、塩谷町、那須塩原市、矢板市にまたがる最高標高1700mを超える火山群であるが、一方では北に広がる塩原の温泉郷を育み、他方では多くの鉱山資源が眠る恵みの山である. 山の南麓では、江戸期初期から採掘が行われた天上沢鉱山(石英、銀、銅、亜鉛)にはじまり元禄年間から採掘が始まった木戸ヶ澤鉱山(銅)、明治26(1893)年頃に操業を開始した高山鉱山(黄鉄鉱、黄銅鉱、石英)、明治38(1905)年頃にはすでに採掘の記録がある野州鉱山(黄鉄鉱、黄銅鉱)、大正8(1919)年に探鉱がなされ昭和8(1933)年から昭和13(1938)年まで採鉱がなされた立室鉱山ややはり1920年代から採掘が始まった玉生鉱山(ともに金、銀、銅、鉛、亜鉛、ウラン、トリウム、珪石)など、数々の鉱山が開発された. またこれらの山は近代以降林業の場としても開発が進み、これらの高原山開発は当然の帰結としてその豊富な資源を搬出するための鉄道を求めたのである.

 

大正4(1915)年には藤原軌道が栃木県上都賀郡今市町(現・日光市)から塩原群藤原村(現・同)に至る軌間762mmの蒸機軌道の免許を取得、同年社名を下野軌道と改めると大正6(1917)年には大谷川北岸の大谷向今市(現在の大谷向)から鬼怒川南岸の中岩(現在の新高徳南側)までの蒸機鉄道を開通、1日6往復の貨客混合輸送で鉄道輸送を開始する. さらに同年内には中岩から大原(現在の鬼怒立岩信号場)まで延伸、大正8(1919)年内までには南北で延伸して現在の東武鬼怒川線にほぼ相当する新今市(現在のJR今市駅前)~藤原(やや場所は異なるが現在の新藤原にほぼ相当)間を全通させた. そして大正10(1921)年には社名を下野電気鉄道に改めると、翌年には軌道法準拠の路線として開業した新今市~新藤原間を廃止し、全線を電化して地方鉄道法準拠の路線として再出発を図ったのである(藤原駅はこの時に移設され新藤原に改名された). 藤原軌道から下野電気鉄道に至る栃木県北の鉄道の発展の陰には沿線の鉱山の急速な発達があったのだが、それでも大正7(1918)年には西沢、木戸ヶ澤の精錬所が操業停止して貨物量が減ったり、大正8(1919)年には軌道法に代わり地方鉄道法が施行され、合わせて昭和4(1929)年には南から延伸して来た東武日光線に接続すべく起点側を新今市ではなく東武下今市に付け替え、東武線に直通するため順次全線を1067mmに改軌するなど、短期間に多くの混乱と投資を要する変更を余儀なくされている.

 

この下野電気鉄道の支線として開通したのが新高徳~矢板間を結ぶ矢板線である. 元々軌道特許で取得されていたものをわざわざ地方鉄道法準拠の免許として取り直した上で大正13(1924)年には高徳~天頂間、そして昭和4(1929)年には矢板までが開通した. その短期間の中で本線の改軌に合わせ東武線への直通に備える形で762mmから1067mmへの改軌が行われたが、こちらは電化されることはなく東武鉄道から借り入れたピーコック製の小型蒸気機関車を使用した混合列車が走った. 沿線では天頂駅で天頂鉱山からの積み出しが行われたほか、船生駅東側の長峰荷扱所では林用軌道と接続し東古屋西方の山地からの林業輸送を担った. また沿線の玉生、船生から東北本線矢板駅や東武線下今市駅への接続輸送も行い、この地域の産業輸送とささやかな旅客輸送の要であった.

 

矢板線が開通すると高原山南麓に広がる鉱山のいくつかではその積み出しのために矢板線を利用すべく協議が行われ、昭和6(1931)年には各鉱山の出資により高原山鉱山簡易軌道と称する軌間762mmの軌道線が開通した. 路線は長峰荷扱所から伸びる林用軌道から分岐、延伸する形で建設され、軌道の途中、百目鬼集落から山中に入ったところに分岐点を設けて山一つ西側の野州鉱山まで、さらに奥の東古屋から東に分岐して釜ノ沢鉱山、北に分岐して天上沢、立室鉱山を経て玉生鉱山まで、またその途中から分岐して高山鉱山までという複雑な路線網が形成された. 林用軌道は元々手押し軌道であったがこれを機に多少の軌道強化がなされ、コッペル製の蒸気機関車と貨車、客車が導入された. しかし高原山鉱山簡易軌道が開通すると間もなく新たな問題が露呈した. もとより天頂鉱山と林用軌道からの貨物輸送程度しか想定していなかった矢板線の線路容量ではこれらの鉱山からこまめに送り出されてくる貨物に対応できなくなったのである. 輸送の効率化のため昭和8(1932)年になると高原山鉱山簡易軌道は百目鬼地区に貨物輸送のハブとなる百目鬼貨物駅を開設、ここで一端搬出する鉱物や木材を整理し貨物列車を組成してから矢板線に流すこととした. 百目鬼から長峰荷扱所までの軌道は1067mmに改軌されて直接船生駅を介して矢板線に乗り入れられるようになり、船生駅の東側に位置していた長峰荷扱所は廃止されて長峰信号場となった. しかし、東武線に直通するには新高徳でのスイッチバックを要することもあって矢板線から貨物列車の増発にはやはり限界があり、日中戦争を前に鉱工業の拡大が求められる中で高原山の多くの鉱山事業所は次なる搬出路を求めるようになっていたのである.

 

■実は奥羽越鉄道日光延伸の条件として課せられた鉱山輸送

昭和3(1928)年には野田市から伸びて来た日光東街道鉄道が宇都宮車庫(現在の北宇都宮)までを開業していた. 昭和7(1932)年には資金難のため同鉄道は奥羽越鉄道に吸収されてしまうのであるが、この際に同鉄道の悲願であった日光延伸を奥羽越鉄道が行うという確約がなされた. とはいえ、日光への鉄道はすでに明治23(1890)年に日本鉄道が鶴田、鹿沼経由で宇都宮~日光間を結んでおり(現在のJR日光線)、昭和4(1929)年には東武日光線も旧例幣使街道を北上するルートで東武日光まで全通していた. そのような中でいざ日光東街道鉄道を吸収した奥羽越鉄道が宇都宮車庫から日光方面への延伸を行おうとしても鉄道敷設免許の下付がなかなかなされなかったのは想像に難くない.

 

ちょうど奥羽越鉄道は同時に東京市内への乗り入れを果たすべく南進計画を進めていた. そこで大きな役割を果たしたのが、当時の埼玉県知事、福島繁三である. 栃木、大田原の出身であり東野鉄道の経営陣を介して奥羽越鉄道に接触した彼は、一方では浦和駅への長距離列車停車を求めていた埼玉県議会への回答として奥羽越鉄道と中山道電気鉄道の合併による浦和駅のハブステーション化を打ち出すのであるが、他方で奥羽越鉄道の日光延伸にも示唆を与えた. つまり、高原山山麓の鉱山や植林地からの貨物輸送を行う路線として免許を申請させ、あくまでその支線として日光への支線を申請すれば鉄道敷設免許下付に希望が持てる環境が整っていることを奥羽越鉄道首脳陣に教示したのである. そもそもが矢板線という単線非電化の路線に相乗りする形で次から次へと多くの事業所が乗り入れを始めてしまったのが混乱の始まりであり特に比較的矢板線から遠い玉生鉱山、立室鉱山、高山鉱山などが独自に東北本線に抜ける貨物路線を建設していればここまでの貨物量のひっ迫を呈することはなかったのだが、これは奥羽越鉄道にとってはむしろ鉄道延伸のきっかけを得るチャンスになった. 昭和8(1933)年には宇都宮車庫から徳次郎を経て百目鬼に至る鉄道敷設免許を取得、さらに翌昭和9(1934)年、つまり奥羽越鉄道と中山道電気鉄道の合併が成立し奥武鉄道が発足する年には、あくまでその支線という位置づけで徳次郎から日光までの鉄道敷設免許が下付された.

 

昭和11(1936)年、奥武鉄道宇都宮日光線の一部として北宇都宮~奥武日光間が開通し中間に下金井信号場(現在廃止)、徳次郎駅、大沢宿駅、奥武今市駅が開設された. そして途中の徳次郎駅から分岐する形で徳次郎貨物線が開業し、徳次郎を出ると途中篠井、塩野室、鬼怒川佐貫、新船生の4ヶ所の信号場を経て終点百目鬼に至った. 徳次郎貨物線は基本的には百目鬼で組成される貨物列車のための専用路線であったが、朝の下り2本、夕方の上り2本のみ、鉱業、林業の作業員を運ぶための専用列車が宇都宮~徳次郎~百目鬼間で運転され、これらはあくまで奥武鉄道の列車ではなく高原山鉱山簡易軌道名義の団体列車(走行するのは専ら奥武線内であるが)という扱いで高原山鉱山簡易軌道が鉄道省から借り受けた客車で運行された. 当時の奥武鉄道全線時刻表には貨物列車と並んで一応掲載があるものの駅の時刻表には記載はなく、あくまで作業員の専用列車という扱いであったが、実際には宇都宮からほぼ距離が等しい奥武今市までの切符を買うことで一般客が百目鬼まで乗車できたという記録もあり、また信号場と言いながら途中の新船生にもプラットホームが設けられて矢板線船生駅との旅客連絡も行われていたらしい. 徳次郎貨物線は奥武線他線や省線に合わせた軌間1067mmで開通し、軌間762mmで残る高原山鉱山簡易軌道の百目鬼以北とは百目鬼で積み荷を積み直すこととなっていた. 当時の百目鬼駅には一日中入れ替えの機関車が行き交い、山から積み出された貨物を詰め替えて奥武線を経て宇都宮、東北本線へ、あるいは矢板線(昭和18(1943)には東武鉄道に編入される)を経て下今市、業平橋へと継走される貨物列車でにぎわったという.

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1950年代の栃木県北部の鉄道. 東武鬼怒川線の新高徳(画像左方)から出て船生、玉生を経て東北本線矢板までを結んでいるのは東武矢板線. 一方奥武徳次郎貨物線が奥武宇都宮日光線の徳次郎(画像下方)から分岐して百目鬼まで伸びていた. 百目鬼駅は高原山鉱山簡易軌道の貨物を捌くキーステーションであり、終日コッペルの軽やかな汽笛が聞かれたという. 
​地図出典:国土地理院旧版地図を加工

■鉱山が衰退する中で林業路線、そしてダム建設路線として活路を見出す

さて、一時期は高原山南麓に雨後の筍のように立ち並んだ鉱山群であるが、なんと早くも昭和10年代には休山、閉山が相次ぐようになる. 徳次郎貨物線が開通してわずか2年後の昭和13(1938)年には釜ノ沢鉱山が休山、東古屋から東に向かうトロッコ路線は休止となった. さらに立室鉱山が同年の洪水で崩壊、玉生鉱山も同年の梅雨前線と台風による大雨を経て翌昭和14(1939)年付で休山に追い込まれる. さらに日中戦争、太平洋戦争の勃発により宇都宮日光線の奥武日光行き列車も徐々に減便され、宇都宮以北を走る列車はごくわずかとなっていった. それでも戦時に向かうにつれ鉱山、林業鉄道である徳次郎貨物線は矢板線よりも軌道が強く重量貨物列車を通しやすいが故に重要視され、昭和19(1944)年にとうとう宇都宮日光線の徳次郎~奥武日光間が不要不急路線として休止される中でも細々と営業を続けたのである.

 

戦後は鉱山が衰退する中で高原山周辺での林業が再興、戦争で荒れ果てた首都圏の住宅再建に一役買うべく、沿線の営林地からの木材積み出しが活発化した. 昭和25(1950)年頃にはすでに高原山鉱山簡易軌道のうち高山鉱山方面、釜ノ沢鉱山方面、野州鉱山方面は休止されていたが、玉生鉱山線と東古屋から西に折れる最も古い林用軌道のみが営業していたようである. 高原山鉱山簡易軌道の路線は2系統のみとなったが、変わらず百目鬼からは1日十数本の貨物列車が東武線下今市方面と奥武線宇都宮方面に出発し、活況を呈していた. 再びレールが敷かれた宇都宮日光線奥武宇都宮方面には新宿から乗り入れる快速「なんたい」が最新鋭のキハ90系気動車を使用して運転され、平和を取り戻した栃木県北の鉄路は活況を取り戻して行ったのである.

 

沿線の旅客輸送の低迷もあって昭和34(1959)年にはついに東武矢板線が廃線に追い込まれる. 東武線新高徳と東北本線の矢板を東西に結んだ小さな鉄路は最後には区間列車を入れて1日5往復の運転だったと言う. ピーコックの牽く小さな貨客混合列車では戦後の貨物輸送を担うには脆弱でもあり、奥武線に貨物のシェアを奪われたことも廃止の一因であった. 当時すでに東武鉄道は矢板線以外の全線が電化、ないし無煙化されており、矢板線は当時東武鉄道最後の蒸機旅客列車牽引路線であった(蒸機列車の運転は佐野線の貨物列車でその後もなされていた).

 

昭和35(1960)年近くになると、旧釜ノ沢鉱山に近い東古屋地区東側に西荒川ダムの建設が決まる. そこで白羽の矢が立ったのが奥武徳次郎貨物線である. 宇都宮から徳次郎貨物線を経て百目鬼に連絡、そこから高原山鉱山簡易軌道の旧釜ノ沢鉱山線を再利用してダムサイトに至る計画が練られ、一度は捨てられかけていた釜ノ沢鉱山線の一部が再び整備されることとなった. この頃には東古屋から西に折れる林用軌道が廃止となったため、その機材を東古屋からダムサイトまでの軌道再建に転用したという. 昭和37(1962)年には西荒川ダムの建設が始まり、徳次郎貨物線と高原山鉱山簡易軌道は俄かに活況を呈した. 百目鬼の駅の側線も拡張され、徳次郎貨物線の列車本数を極力増やさなくて済むよう貨物列車の編成長が長くなり、徳次郎貨物線の各信号場はもちろん、宇都宮駅の貨物側線と北宇都宮駅、徳次郎駅の各駅も21m車両16両編成に対応できる形に改良された.

 

■バブル経済での延伸計画とその頓挫

昭和43(1968)年に西荒川ダムが竣工すると東古屋からダムサイトまでの路線も廃棄され、その後は天上沢の林業輸送や昭和32(1957)年から再び操業を開始した玉生鉱山の鉱業輸送が続けられた. 高原山鉱山簡易軌道は塩谷鉱山鉄道を名を変え、船生地区からの農産物輸送にも徳次郎貨物線が利用されるようになり、昭和60(1985)年に塩谷鉱山鉄道が廃止された後も徳次郎貨物線には1日何本かの貨物列車が走った. 国鉄から借り受けた旧型客車による工員輸送は晩年まで百目鬼駅の駅員輸送として細々と残っていたが、一時期これらを宇都宮日光線から引退したキハ90系に置き換える計画もあったようで、1970年代半ばから1980年代半ばにかけて、百目鬼駅に放置されたキハ90系の目撃談が伝えられている.

 

昭和60年代にも入るとますます列車本数が減った徳次郎貨物線だが、昭和の末期から平成初期には隣接する東武鬼怒川線沿線に日光江戸村や東武ワールドスクウェアが開園し観光開発に力が入れられる中で奥武鉄道でも東武鉄道に対抗できるような日光周囲圏の回遊性を創出すべく、この徳次郎貨物線を塩原温泉郷まで延伸し特急列車を走らせるという構想が持ち上がった. その際には旧高原山鉱山簡易軌道(塩谷鉱山鉄道)の軌道敷きを改修して再利用するという予定であったらしいのだが、バブル経済の崩壊を経て東武鬼怒川線よりも路線長が遥かに長くなる徳次郎~塩原温泉線では観光収入が得られたとしても路線維持のコストを賄えないだろうという試算が優勢となり、貨物需要の減少が顕著となる中で平成10(1998)年に徳次郎貨物線も延長、旅客化されることなく終焉を迎える.

 

矢板線、徳次郎貨物線、高原山鉱山簡易軌道…昭和期に栃木県北の産業に資した3つの鉄道は全てその生を終えた. 玉生、船生、百目鬼といった独特の駅名や高原山に眠る火山の恵みとともに、失われた鉄路の記憶は遥か彼方のものとなったが、偶然でもあろうか、東武鉄道では平成29(2017)年から矢板線以来となるSL旅客列車、SL大樹の運転が鬼怒川線にて始まり、奥武鉄道では平成31(2019)年から徳次郎貨物線で使用されていた旧国鉄旧型客車を用いてSL列車の運転が始まった. 東武と奥武のSL列車を見るに、かつて栃木県北で連携して貨物輸送を行っていた2つのローカル線を思い起こしてしまうのはただの感傷だろうか.

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奥武線 鉄道小噺 第19回   栃木県北に消えた鉄路