東北本線筋と会津盆地とを連絡する磐岩線は、開通当初より岩越鉄道、のちの磐越西線との競争を強いられてきた. 詳細は小欄「会津藩士の夢見た鉄道」でも触れたが、奥羽越鉄道の第一期線に含まれていた若松城下~郡山、若松城下~白河間の建設が始まって間もない明治27(1894)年に日清戦争の勃発によって建設資材が高騰し路線の延長が滞ると、その隙をついたかのように終戦直後の明治30(1897)年には岩越鉄道が郡山から会津に向けて鉄道を伸ばし始めるのだ. そこからの歴史はまさに会津対東京連絡の主役をかけた戦いの歴史である.

 

起点駅はどちらが優位?

 

磐岩線の起点は白河、磐越西線の起点は郡山である. 2017年現在のそれぞれの人口は白河市60781人(2017年10月1日推計人口)に対して郡山市334636人(同)と、もはや比べるべくもなく郡山市の圧勝だ. 福島県の3大都市と言えば現代では人口30万人前後で並ぶいわき、郡山、福島であり、中核市でもあるいわきや郡山と白河とではそもそも都市としての格が異なる.

 

しかし明治期以前を振り返れば白河はみちのくの玄関口である白河の関を擁する交通、軍事の要衝として重要視されており、代々榊原、本多、松平といった徳川譜代の城主達が城を守っていたし、新発田や村上からの参勤交代のルートも越後街道から会津、白河街道を経て郡山ではなくこの白河を経由していた. 重要な場所であっただけに戊辰戦争では激戦地になってしまい市街の多くを消失、後の福島県内における地位を大きく下げてしまうことになるのだが、明治期においては会津と東京を連絡するのにまず白河へ抜けるという奥羽越鉄道のとったルートは歴史的にみて妥当なものだったと言えるだろう. また会津盆地と東京を連絡することにのみ注目すれば、会津盆地から東北本線へ斜めにショートカットする白河ルートの方が有利とも言え、実際奥武鉄道の特急電車が在来線特急であるにもかかわらず新宿~会津若松間の輸送において新幹線と磐越西線の乗り継ぎに所要時間で勝っているのは、一つにはこのショートカットのおかげでもあるのだ(あとは郡山での新幹線列車と磐越西線列車の乗り継ぎが異様に悪いのも影響しているが).

 

競い合うように開業した磐岩線と岩越鉄道(磐越西線)

 

冒頭で述べたように、磐岩線の開通は岩越鉄道(現在の磐越西線)の開通抜きに語ることはできない. 奥羽越鉄道としては当初若松城下~郡山間の鉄道(奥鉄東線)と途中三代から分岐する若松城下~白河間の鉄道(奥鉄南線)の双方を同時に建設する予定であった. しかし日清戦争に巻き込まれて中央分水嶺を超える御霊櫃峠、勢至堂峠のトンネル工事が滞る中で明治30(1897)年に岩越鉄道の工事が始まってしまい、慌てて策を練り直すことになったのだ. それは具体的には岩越鉄道と郡山~若松間で完全に競合ししかも路線距離で不利になりかねない奥鉄東線ルートの工事をしばしとりやめ、対東京輸送で勝ち目のある短絡ルートである奥鉄南線の開業に全力を投入するということであった. 実際、岩越鉄道は起工から1年8カ月後の明治32(1899)年夏に郡山から若松までを開業させるのだが、すでに明治25(1892)年の時点で若松城下~三代~浜路間を開業させていた奥羽越鉄道は岩越鉄道を追い抜くスピードで三代から白河までの工事を進め、明治31(1898)年に白河までの磐岩線を開業させるのである. なお当時はまだ現在の岩羽線にあたる区間は若松~喜多方間のみの開業であり、白河までの開業時点では白河~若松~喜多方間を合わせて磐岩線と命名することになった. その後岩越鉄道は若松でスイッチバックして喜多方までの鉄道を明治37(1904)年に開業、2年後の明治39(1906)年には買収・国有化されて後に「岩越線」と命名されるのであるが、こうして若松、喜多方と奥州街道筋とを連絡する二つの鉄道が整備され、熾烈な競争を始めるのだ.

 

岩越線の新津全通と奥羽越鉄道の南進

 

東北本線筋と会津盆地とを連絡するまでは奥羽越鉄道が若松~喜多方間を皮切りに南進する形で、岩越鉄道が郡山から若松、喜多方へと西進する形で逆方向に整備を進めてきたが、岩越鉄道の国有化後もすでに東京市内から会津までが繋がっている岩越線は会津盆地から新潟を目指して西進を続け、奥羽越鉄道は東京直結を目指して南進を続けることになる. 大正3(1914)年には郡山~若松~喜多方~野沢間の岩越線と新津~津川間の信越本線支線を延伸統合する形で郡山~若松~喜多方~新津間が全通し、大正6(1917)年にはこの路線が磐越西線と命名される(また同年に若松駅が会津若松駅に改称されている). やや遅れをとって大正10(1921)年には奥羽越鉄道が黒羽~白河間の「奥鉄本線」を開業して黒羽から西那須野まで東野鉄道に乗り入れを開始、さらには大正13(1924)年の東野鉄道黒羽~那須小川間開業、昭和2(1927)年の奥鉄関東線(茂木~七合~常陸大子)および奥鉄小川線(七合~那須小川)開業、その後の奥鉄関東線延伸を経て、パッチワーク的にではあるが昭和9(1934)年までに浦和~笠間~七合~那須小川~黒羽~白河~会津若松~喜多方を結ぶ鉄道が完成し、同年の中山道電鉄との統合を経て新宿までの列車直通を果たしたのである. 一方昭和9(1934)年といえば磐越西線においては会津若松~喜多方間にガソリンカーを用いた都市間短距離列車の運行を開始しており、この時点で東京対会津の広域連絡という点でも、会津盆地内での地域輸送という点でも両者のハードが概ね揃っていた.

 

奥羽越鉄道が必死に東京市内に向けた南進を進めていた大正後半から昭和初期、磐越西線は実は東京~会津連絡以外にもう一つの使命も担っていた. 東京~新潟間を結ぶ準幹線という役割である. 昭和6(1931)年に上越線が開通するまで東京と新潟とを結ぶ鉄道は信越本線の碓氷峠越えかこちらの磐越西線かしかなく、磐越西線ルートには普通列車しか設定されていなかったものの、磐越西線経由の夜行普通列車は信越本線経由の夜行急行列車にも準ずる所要時間(東京~新潟間を夜行で11時間58分)を誇っていたため、東京と新潟を結ぶ有力なルートの一つであった. その点喜多方で路線が途切れていた磐岩線は会津以南の連絡に全力を投じる方針をとり、昭和10(1935)年には新宿~喜多方間に速達列車を導入することになるのだった.

 

東京会津間速達輸送は磐岩線が先行

 

昭和10(1935)年、奥武鉄道は磐岩線を走る初の長距離優等列車として、新宿~喜多方間を直通する快速「白虎」が運行を開始した. それまで普通列車で約7時間を要していた新宿~喜多方間を5時間で連絡したのも画期的であったが、全列車普通列車の磐越西線に対抗するために敢えて特別料金の要らない「快速」として設定されたのは当時にしても利用客をあっと言わせたと伝わる. 会津戦争で戦った白虎隊に因む列車名「白虎」は前年に中山道電鉄との合併で若松の本社を失い不満を募らせていた旧奥羽越鉄道社員に対する配慮でもあった. その後戦前戦中の東京対会津輸送は一貫して磐岩線が優位を保ったが、太平洋戦争の戦況悪化を受けて昭和19(1944)年には奥武鉄道全線で快速の運転が中止されてしまう.

 

戦後の東京対会津連絡でも優等列車運転で先行したのは磐岩線であった. 昭和24(1949)年には新宿~会津若松間で快速列車「あかべこ」4往復を運転開始、戦争を連想させる「白虎」よりもどこか平和な響きの「あかべこ」が選ばれたのは時代の風潮というものでもあろう. 新宿から会津若松までを5時間弱で連絡した.

 

対する国鉄磐越西線は昭和30(1955)年に至って上野~仙台間103/104急行列車「松島」と上野~仙台間109/110準急列車、上野~青森間117/118夜行普通列車に郡山で分割・併合する形の磐越西線直通列車を設けた. とはいえ、急行「松島」併結列車で上野~会津若松間に6時間半程度を要していたものであるから、磐岩線のあかべこの優位を覆すものではなかった. その後も国鉄は昭和33(1958)年に上野~仙台間に急行「吾妻」を1本増発してこれにも会津若松に直通する客車を併結、さらに昭和34(1959)年には109/110準急列車の磐越西線区間内をも準急に格上げし「ばんだい」の愛称を与えるなど徐々に東京対会津輸送が改善されていくが、新宿からの直通快速列車を4往復運転する磐岩線にかなうものではなかった.

​1967年の電化後2015年に至るまで、磐越西線では約半世紀にわたり国鉄特急形電車が優等列車運用に就いていた. 

電化で巻き返しを図る磐越西線

 

その後も東京対会津の連絡では奥武鉄道が一歩先を進み続けた. 昭和32(1957)年にはかつて奥鉄北線と呼ばれた米沢までの鉄道が全通し(岩羽線)、新宿から米沢を経て国鉄米坂線、羽越本線に乗り入れ日本海沿いに秋田までを連絡する夜行快速「あおまつ」が登場、概ね現在の「もがみ」と同じ時間帯の走行であり、全車普通座席車ながら、下りは23時半頃に新宿を出て翌朝4時半に会津若松到着、上りは0時過ぎに会津若松を出て翌朝5時過ぎに新宿に到着するダイヤで好評を博した.

 

特急列車を最初に導入したのも磐岩線だ. 昭和35(1960)年、あかべこが特急に格上げされ、新たに日本初となる特急形気動車が導入された. 新宿~会津若松間を7往復、所要時間は初めて4時間を切り、奥武鉄道初の有料特急列車ながら国鉄の特急列車にも伍する内装が話題を呼んだ. このちょうど2年前には東京以北で初めての国鉄特急列車となる客車列車の「はつかり」が上野~青森間で運行を開始しており、またあかべこの特急格上げと同年の昭和35(1960)年末にははつかりにやはり当時最新型の特急形気動車であるキハ81系が導入されていた. 当然あかべことはつかりはメディアでも格好の比較対象として取り上げられたし、会津地方では青森行きの国鉄本線系統に負けない特急列車が会津にやって来たことが(快速から替わって特別料金を取る実質値上げにもかかわらず)特に喜ばれたという. この際にそれまでの快速列車は停車駅を増やしており、それまで通過していた下妻、伊王野、芦野などに新たに停車することで奥武本線内のサービスを向上している.

 

国鉄が巻き返しを図るのはその黄金期にも入る昭和40(1965)年頃からだ。同年上野~山形・会津若松間にキハ82系特急形気動車による「やまばと」が運転を開始し、山形行きとの併結列車ながら一気に奥武線とのサービスの差を縮める. 昭和42(1967)年には磐越西線の郡山~喜多方間を電化し、急行「ばんだい」を電車化、翌昭和43(1968)年にはやまばとの会津若松編成を特急「あいづ」として独立させ、上野~会津若松間において当時最新鋭の483/485系9両編成を用いた運転を開始したのである. この時期、奥武鉄道はというとようやく昭和40(1965)年に交流電化のパイロット区間と位置付けられた宇都宮日光線の下総境~奥武日光間交流電化が終わった段階であり、その成果を検証しつつようやく奥武本線の全線電化(そしてこれは石岡の地磁気観測所の関係で当然ながら交流電化以外の選択肢はなかった)が議論されていた段階であった. 磐越西線の喜多方電化から実に10年後の昭和52(1977)年になってようやく奥武本線の下総境~白河間が交流電化され新宿~白河間に電車特急「しらかわ」が登場するが、この時点では白河以北の磐岩線が非電化であったため、奥武鉄道は特急「あかべこ」の運行区間を白河~会津若松・喜多方間に縮めて「しらかわ」と「あかべこ」を乗り継がせるという苦肉の策に出た. 磐越西線喜多方電化から13年も経った昭和55(1980)年にやっと磐岩線の20000V交流電化が完成し、電車特急の「あかべこ」が改めて新宿~会津若松間を連絡し始め、電化区間の関係で奥武特急の喜多方便は全て廃止された. とりあえず都内~会津若松間においてはようやく双方が20000V交流電化、電車特急でサービスを並べたわけであるが、この時点では国鉄特急あいづは9両編成、奥武特急あかべこは7両編成と、まだ国鉄の方がやや優勢な感もあった.

 

国鉄末期から平成期、衰退する磐越西線を横目に磐岩線が追いつき、追い越す

 

昭和57(1982)年、東北新幹線が開通すると国鉄の東北特急は一気に新幹線列車に置き換わる. 会津若松行きの特急「あいづ」自体にはしばらく変化はなかったが、上野から磐越西線経由で新潟までを結んでいた急行「いいで」や仙台~会津地方各地を多層建て列車として結ぶ急行「いなわしろ」が同年に廃止になり、昭和59(1984)年には上野発着の急行「ばんだい」が快速に格下げされるなど、磐越西線は一気に長距離輸送の担い手としての使命を手放していく. 平成4(1992)年には山形新幹線の開業に伴う車両運用変更で特急「あいづ」が9両編成から7両編成に短縮され、その上野~会津若松間特急「あいづ」も翌年には廃止されて郡山~会津若松間の短距離特急「ビバあいづ」に変更、平成15(2003)年には特急を485系電車使用の快速「あいづライナー」に格下げ、そしてその快速「あいづライナー」さえも平成27(2015)年春に廃止されて一般車による快速に置き換え、となし崩し的に優等列車は消えて行った.

 

一方磐岩線では国鉄のような多方面への列車ネットワークこそ築けないものの、昭和55(1980)年の電化以降まず磐岩線内で多数運転されていた普通列車の多くを快速に置き換えることで需要のある停車駅にだけ停車する速達列車を拡充、平成19(2007)年には最高時速140km/h運転できる新型特急電車10000系を導入し、これまでの「あかべこ」の本数を減らすことなく一部の「しらかわ」を置き換える形で速達型の特急「白虎」を追加新設、初めて新宿~会津若松間で3時間を切る運転を実現するとともに従来と同じ停車駅の「あかべこ」でもスピードアップを実現した. この時点で新宿~会津若松間の輸送においてJR新幹線を利用した新宿~会津若松間の所要時間を下回ることができているのだが、さらに平成29(2017)年には都営三田線に直通した上での東京都心発着の特急「メトロコア会津」(下りのみ)と「メトロコア会津白虎」(上りのみ)も合計1往復ながら運行を開始しており、広域輸送がますます拡充されている.

 

2017年時点での磐岩線と磐越西線を比べてみよう!

 

今では奥武鉄道磐岩線もJR磐越西線も会津若松までの区間でともに50Hz20000V交流電化されている. 距離は磐岩線が70.4km、磐越西線が64.6kmと磐岩線の方が1割ほど長く、それぞれ猪苗代湖の南と北を抜けて会津地方と外部を連絡している競合路線だ. 磐岩線の白河~会津若松間と磐越西線の郡山~会津若松間を比較すると、全区間を直通する列車の本数は次の通り。

 

磐岩線: 特急12往復(うち3往復半が速達型の白虎、メトロコア会津白虎)

      特急所要時間:58~69分

     快速6往復(白河と会津若松の双方には停車していない夜行快速を除く)

      快速所要時間:69~90分

     普通3往復

             普通所要時間:82~107分

     ほか区間普通列車多数

      (普通列車総本数は白河~岩代長沼間で12往復半、

       岩代長沼~三代間で3往復、

       三代~会津湊間で9往復、

       会津湊~会津若松間で14往復)

 

磐越西線:快速7往復(かつてのあいづやばんだいの名残)

      快速所要時間:62~71分

     普通10往復半

      普通所要時間:70~81分

     ほか郡山~磐梯熱海間区間普通列車1往復

 

磐越西線では普通列車も広域交通を担わされている感があるが、磐岩線では特急と快速だけで磐越西線の総本数と同等の列車数が確保されている. スピードで見ると磐岩線の特急白虎/メトロコア会津白虎が70.4kmを58分で結んでおりこの中では速さが目立つが、一方で磐岩線の快速列車では線内で離合すべき普通列車や特急列車の本数が多いだけに白河~会津若松間の所要時間が69~90分とばらついているのが特徴だろうか. なお磐越西線のダイヤでは快速による普通列車の追い抜きは一切設定されていないが、磐岩線でも実は線内での旅客列車同士の追い抜きは一切ない. ただ一つの例外として夕方18時過ぎに会津湊駅において、浜路発会津湊止まりの普通列車が18時03分に同駅に着いた直後18時06分に下りあかべこ15号が同駅を発着、18時09分に会津湊始発普通喜多方行きが出るダイヤになっており、(会津湊止まり普通列車と始発普通列車は別の車両を用いているので列車待避ではないが)時刻表上は列車待避をしているのと同じ効果を出している.

 

これまで100年余りにわたって会津連絡の主役を巡って華々しく戦って来た磐岩線と磐越西線。平成27年にあいづライナーが廃止されてしまってから磐越西線の列車構成にやや華がないのが気になるが、会津地方と東北本線筋とを結ぶ二つの交流電化路線にはこれからも激しく建設的な争いを展開してもらいたいものである.

​磐岩線では2007年の10000系電車投入で新宿~会津若松間3時間未満という新たな時代を迎えた. 

​奥武線 鉄道小噺 第6回

​徹底対決!磐岩線vs磐越西線