​奥武線 鉄道小噺 第4回

​日本鉄道に反旗を翻した中山道電軌

其之三 官営鉄道城下町に退けられた氷川の杜の電車

中山道線は浦和駅を出ると本太、南領家、北領家、浦和木崎、武蔵大原、天沼町と進み奥武大宮に至る. 前回、明治26(1893)年の中山道電軌敷設時に浦和から先のルート選定で大宮-上尾ルートと与野-川越ルートの双方が挙がり、集客という点では当時与野-川越ルートに圧倒的に利があった一方で鴻沼低地の埋め立てや荒川架橋という技術的観点から大宮-上尾ルートに決着したことはすでに触れたところだ.

 

江戸期はじめに中山道浦和宿~上尾宿間の馬継場から宿場に昇格した大宮宿は浦和宿を出て隣りの中山道の宿場町であり、中山道と府中通大山道春日部方面の追分であった. 旧中山道をなぞることを社是としていた中山道電軌としては当然当初からの経由地候補というわけであるが、明治初期には中山道の衰退とともに寂れており、人口、商業双方で近隣の与野宿(古くは鎌倉街道脇往還の、また江戸期には府中通大山道北廻りルートの宿場であった)に劣っていた. 明治16(1883)年に日本鉄道が上野~熊谷間に初めての路線を敷設した際も、大宮宿は243戸まで戸数を減らしていたこともあり、見事に通過されてしまっている(かつての中山道の宿場の歴史をなぞるようであるが、日本鉄道の開業当初、浦和停車場の次は上尾停車場であった). 日本鉄道の第二期線でもある上野~青森間の鉄道建設が決まると、浦和分岐で城下町岩槻を経由する案、熊谷分岐で製糸産業の本場である桐生足利などを経由する案と並び大宮分岐案が挙げられた. 荒川東岸、現在のさいたま市周辺エリアでは最大の町であった岩槻の鉄道忌避運動により、最も路線距離が短くなる上に城下町岩槻を経由できる浦和分岐案が廃案になり、また熊谷分岐では製糸工業地帯を通ることで国策上の有利さはあるものの路線長が長くなりすぎるなどの反対意見もあり、ある意味特段の売りがあったわけではない中間の大宮分岐案にお鉢が回って来る. 現在の高崎線と宇都宮線につながる鉄道の分岐点としての大宮駅の開業は明治18(1885)年、これが後に川越に代わって埼玉県の新たな商都となる商工都市大宮の始まりとも言えるのだが、しかしこの頃はまだ寒村の野っ原に駅ができたというだけであり、大宮の商工都市としての歩みが本格的に始まるのは9年後の明治27(1894)年、日本鉄道の大宮工場が開設されてからである.

 

中山道電軌が延伸して来たのは明治26(1893)年、すでに日本鉄道の大宮駅は開業していたものの当時は1日数本走る汽車の分岐点という以上のものではなく、鉄道駅自体の拠点性はそれほどのものではなかった. 中山道電軌のルート選定において与野-川越ルート案が廃案になると、むしろそれまで与野-川越案を推していた蕨の役員たちを中心とする意見もあり、中山道電軌としては日本鉄道線とのサービス差別化のために参拝客需要の見込める武蔵国一の宮、大宮氷川神社への輸送を重視する方針を採り、大宮ルートの策定が始まった.

 

浦和中央電停を出た路線は中山道の併用軌道で日本鉄道線をオーバークロスして元府趾、領家(現在の北領家駅)と進み、木崎村(当時)の木崎電停(現在の浦和木崎駅)を出ると大きく東側に迂回し武蔵大原へと至った. この武蔵大原、「武蔵」がついているのは房総鉄道(現在のJR外房線)の「大原」との重複を避けたのではなく、京都の大原に対して「武蔵」をつけたものだという. なお房総鉄道の大原駅が開業するのは明治32(1899)年、中山道電軌より後だ.

 

木崎から武蔵大原にかけては見沼と呼ばれた低湿地帯であり、鴻沼低地を避けて川越延伸を断念した中山道電軌がわざわざこんな悪路を進んだのは不思議としか言いようがないのだが、伝えられるところでは江戸期に武蔵国における罪人の処刑場として知られた下原刑場跡(現在のさいたま新都心東側)を縁起が悪いとして大きく避けたためとされる.

 

中山道電軌線の線路は武蔵大原から再び左に折れて天沼(のち昭和30(1955)年に住所変更に伴って天沼町に変更)を経て氷川神社の参道、中山道を目指した. この武蔵大原から天沼、氷川前に至るルートは大宮台地に入り組むように残っていた見沼の低地沿いに敷かれ(地名もその名の通り天”沼”であるが)、当時の天沼電停は東西の台地に挟まれ斜面林に囲まれた低湿地にポツンと位置するちょっとした秘境駅であった. 現在では線路周辺も全て宅地化しているが、元低湿地であった場所だけは地形の関係で周囲と地割がずれており、碁盤の目状の町割りの中に斜めの線として残っているため今でも地図上でそれと分かる.

 

中山道線における大宮町の玄関口たる氷川前電停は天沼を出てから日本鉄道大宮停車場の北東側で中山道上に入り、併用軌道に入ったまさにその場所に開設された. その名の通り大宮氷川神社の至近であり、旧中山道と旧府中通大山道の追分地点に造られ、明治26(1893)年の開業と同時に急行電車も停車を開始し、参拝客で賑わったという. 駅名決定の際中山道電軌を立ち上げた板橋商人らは「大宮中央電停」を電停名候補として挙げたが、当時としても中山道大宮宿の中心部からはやや北に離れていたこともさることながら、この時代埼玉県で大宮といえば北足立郡に属する中山道の大宮宿よりも秩父郡の大宮郷(現在の秩父市中心部)を想起する者も多く、秩父郡の大宮郷も中山道の大宮宿もそれぞれ中山道電軌開通直前の明治22(1889)年に隣接する村と合併してそれぞれ「大宮町」として町制施行していた. 秩父郡の大宮町との混同を避ける観点から氷川神社の門前町であることを強調すべきとの意見が蕨商人を中心にまとめられ、電停名は「氷川前」に決定したとのことである.

 

中山道電軌の氷川前電停までの本数は日中急行2本/時(浦和中央を出ると氷川前、上尾の順に停車)、各駅停車2本/時と現代の通勤電車と比較すればとても少ない本数であったが、参拝客輸送には十分な本数でもあり、同じ武蔵国に属する都内からの一の宮参拝客も増えたことで当初は地元にも好意的に迎えられた.

 

氷川前を出た中山道電軌線はその後日本鉄道線と交差する位置に北大宮、その北に土呂(昭和58(1983)年に開業する国鉄土呂駅とは別の場所で、昭和35(1960)年に住所変更を受けて植竹盆栽町に改名される)と電停を設け、土呂を出ると農地が広がる中を一気に飛ばして上尾下(昭和46(1971)年に水上公園に改名)、上尾と停車した(今羽駅は後年の開業).

 

中山道上尾宿は中山道と複数の脇街道が交わるジャンクションでもあり、かつては米の積み出し拠点としても栄えた宿場町であるが、天保14年のデータでは宿内人口793人と、人口2000人台の板橋、蕨に比べればもちろんのこと、1000人台の浦和、大宮に比べても小さな町であった. とはいえ江戸を早朝に出ていればちょうど夜を迎える距離にあることもあり、飯盛旅籠が発達し、飯売り女(という名目の私娼)が多く配置されていたため、中山道の旅客のみならず川越や岩槻などの城下から女遊びに訪れる客も多かったという. 小さな上尾宿であったが、浦和や大宮と異なって日本鉄道の駅が旧中山道にすぐ隣接して設けられていたこともあり、中山道電軌の建設にあたってはここで一度日本鉄道の駅に接続し、中山道電軌建設に当たっての資材搬入口とすることが決定された. 明治26(1893)年の中山道電軌戸田川岸~鴻巣間開業時、何と中山道電軌線戸田川岸~鴻巣間と日本鉄道線が接続しているのはこの上尾駅と鴻巣駅のみだったのである(浦和駅は奥羽越鉄道と合併する昭和9(1934)年にようやく官鉄線と接続している).

 

明治26(1893)年の開業時点で上尾から北に設けられた中山道電軌線の駅はわずかに桶川中央と鴻巣のみであり、この2駅には急行電車が停車していたため、浦和中央電停より北で日中1時間あたり2本運転された各駅停車電車は全列車上尾での折り返しとなった. 上尾には軌道建設の資材搬入口として中山道電軌の上尾支社が置かれ、電車の折り返し地点としてもダイヤ上重要な位置を占めるようになった. その後中山道電軌の奥羽越鉄道との合併の際に上尾支社は組織としては解体され本社管轄区域に組み込まれるが、上尾駅は現在でも中山道線通勤電車の折り返し駅として機能しており、中山道線における上尾駅の運行拠点としての役割は現在でも変わらない.

さて、明治26(1893)年に戸田川岸~鴻巣間で開業した中山道電軌線であるが、その後大宮周辺では官鉄との競合があらぬ方向に進んで行く. 開業当初こそ武蔵国一の宮、氷川神社の目前にアクセスする路線として好評を博した中山道電軌線であるが、中山道電軌開通翌年の明治27(1894)年に日本鉄道の大宮工場が開設されると、徐々に大宮の住民の中では長男が農業を継ぎ次男以下は鉄道工場に勤めるという家庭が増え、大宮町自体が日本鉄道、のちには官営鉄道の企業城下町と化していき町の政治にも官営鉄道関係者が影響を及ぼすようになる. こうなると大宮町にとって官営鉄道の競合交通機関である中山道電軌は敵と見做されるようになり、しばしば町との軋轢を生むようにもなってきたのである.

 

その最初の例が明治37(1904)年の第一次中山道電軌移設騒動である. 明治35(1902)年に川越電灯からおこった川越電気鉄道が、川越久保町から荒川を渡って大宮に至る軌道線を開業する. 後に西武大宮線となるこの軌道路線は工費削減のために赤羽工兵隊の鉄道大隊が演習を兼ねて敷設を請け負っており、元々の規格が戦地での物資、人員輸送を目的とする仮設線路程度であったためその後脱線事故が多発、後に昭和6(1931)年には死亡事故を来して当の地元から廃止とバス転換の請願が出るといった有様でありとてもではないが埼玉県の新旧の商都である川越と大宮とを結ぶインターアーバン、などといった格好の良いものではなかったのだが、開業当初としては商都川越と日本鉄道沿いを連絡する期待を担っていた. この川越電気鉄道が日本鉄道大宮駅の西口に接続する形で開業したため、もとより与野-川越延伸を断念した経緯もある中山道電軌としては是が非でもこれに接続すべく、日本鉄道大宮駅に接続するためのルート変更を画策した. これは木崎から旧中山道に入って日本鉄道沿いないし中山道路上を併用軌道で走行して大宮駅に至り、そのまま日本鉄道に沿って北大宮に至るという壮大なもので、もし実現されれば後の上蕨~領家間線路付け替えにも匹敵する大規模な線路付け替えになるはずであった. 併用軌道を走る区間が長くなればその分列車の走行速度は落ちるが、これまでの下原刑場跡を迂回するルートよりも路線長が短くなるため、当時の自動車が少ない状況ではむしろ所要時間は短縮されるだろうという予想が立てられた.

 

しかしこれを了としなかったのが当時の大宮町議会である. 日本鉄道の関係者が影響を与えていた当時の地元政界では中山道電軌の大宮駅乗り入れによって日本鉄道の近距離客が奪われることを憂慮し、中山道電軌の町道乗り入れを認めなかった.

 

日本鉄道関係者と中山道電軌の軋轢が表面化した第二ラウンドが昭和4(1929)年の北総鉄道(現在の東武野田線)粕壁(現在の春日部)~大宮間開業である. この路線は旧府中通大山道に沿って春日部と大宮を結ぶ路線であるが、東側から大宮にアプローチするとあり、大正1(1912)年に東京市電との直通運転を開始し、昭和1(1926)年には秩父鉄道に乗り入れて熊谷までの直通運転を開始するなど東京市への通勤電車としても埼玉県内のインターアーバンとしても着実に発展を遂げていた中山道電軌としては全力を挙げて北総鉄道からの集客に力を注いだ. 北大宮駅で北総鉄道と接続できたことで今度は北大宮駅に渡り線を設けての北総鉄道への直通運転を画策するようになり、これはついに実現しなかったものの、暫定的な措置として氷川前に加えて北大宮に急行を停車させ、北総鉄道からの集客を開始した. それは北総鉄道のダイヤに合わせて急行列車のスジを引き直すほどの大胆なものであり当時のダイヤを見ると中山道電軌の省線に対する露骨なまでの対抗意識が垣間見える. 昭和7年に中山道電軌の新宿~川越板橋(二代目・現在の中板橋)間が開業し新宿~鴻巣間に急行電車が走り出すと省線との緊張は極度に達し、省線関係者の多い大宮町議会からは中山道電鉄(同年中山道電軌から改称)の運行差し留め決議まで出された. これは法的効力を有するものではなかったが、昭和9(1934)年に中山道電鉄が奥羽越鉄道と合併して奥武鉄道が発足すると、大宮町はその混乱を利用して町中心部の区画整理のために併用軌道を廃止するという名目で、中山道線の宿外移設を決定する. 中山道線の天沼~北大宮間は中山道上を併用軌道で通る在来ルートから町の外周をなぞり氷川神社の目の前をかすめるルートに変更され、氷川前電停は新たに足立大宮と名前を変えて氷川神社の門前近くに移設されたが、官鉄の圧力で中心街から締め出された奥武鉄道側は報復措置として足立大宮への急行停車を見送っている(つまり、大宮町内で急行電車が停車するのは北大宮だけという状態となった). この足立大宮、秩父郡の大宮町に対して北足立郡の大宮という意味で名付けられているが、昭和15(1940)年に大宮町が周辺の村を合併して埼玉県内5番目となる市制施行を実現、十万商都(当時)の大宮市が誕生すると市からは旧郡名に由来する「足立大宮」の駅名を改称してくれとの要望が繰り返し寄せられるようになり、奥武鉄道は駅名改称に伴う経費を市が負担しなければ応じないとして毎回はねつけている.

昭和初期の当時はまだ武蔵野線もなく、川越電気鉄道と総武鉄道(北総鉄道から改称、現在の東武野田線)で東西の都市と連絡する省線大宮駅は中山道沿道では実質的に唯一の県内東西交通の要であり、埼玉県内における交通拠点としては現在以上に重要な拠点駅であった. その大宮駅への乗り入れを拒否され市街地から締め出された奥武鉄道側はその後も足立大宮の急行通過を続け、ようやく他都市の駅名と合わせる形で「奥武大宮」に駅名が変更され奥武大宮駅に急行電車の停車が再開される(この際北大宮駅の急行停車は中止された)のは、昭和も末期の昭和55(1980)年のことである. その間に足立大宮駅の利用はすっかり低迷して国鉄駅に大きく水を開けられ、現在でも駅周辺は氷川の杜を前にした静かな住宅街となっているが、近年ではそれが逆に駅周辺の治安の良好な都内への通勤拠点駅として地域住民の好評を得ており、急行の他に深夜のライナーが停車している. また初詣のシーズンだけは都内からも参拝客が訪れ昔と変わらぬ賑わいを見せているようだ.