奥武線 鉄道小噺 第18回   奥武鉄道x埼玉三都120年史 <上>

首都圏にありながら人口150~300万という都市がなく、色彩の異なる中規模の都市が乱立しそれぞれが個性を発揮している埼玉県. そこで三都と言ったらどこだろうか. 近代以降県の行政政治、文化の中心都市となった浦和や新幹線を含むJR幹線の長距離列車が停車する商都大宮の他に、江戸時代以来の東京の衛星都市であり明治大正期まで県内最大の商都、そして今は当時から残る景色が観光資源となっている川越を挙げる人も多いだろうか. しかしあくまで現代における都市のサイズ、規模、という面で言えば、荒川に面し鋳物工業の街として名を馳せた川口を抜かすことはできないだろう. 江戸期以来の鋳物工業を基盤に近代に入って数々の工場が立地し、そして今はその跡地に超高層のタワーマンションが林立する川口市. かつての中山道の宿場を大正期の耕地整理事業で面的に展開した新市街に関東大震災を契機に東京や横浜から文化人が移り住んだことで「文教都市」としての骨格が生まれ、行政メディア、インフラ企業が集積する中に真新しい高層マンションが雨後の筍のように立ち並んで今なお成長を続ける県都浦和. 小さな宿場町に日本鉄道の分岐点を誘致し官営鉄道の城下町として工業化を進め、川口とはまた違った重工業の商工都市として昭和以降度々浦和との政治戦争をも演じて来た大宮. 今回は人口50万人台を誇る埼玉県の三大都市、川口、浦和、大宮と奥武鉄道の近代史を振り返る旅に出てみようではないか.

 

■中山道電軌を目の敵にした大宮町会

奥武鉄道の本社は会社設立時よりさいたま市浦和区に置かれており、埼玉県の県庁所在都市さいたま市、あるいは浦和は奥武鉄道の企業城下町と言える. しかし元を辿れば奥武鉄道とは板橋、蕨の商人が立ち上げた中山道電軌と会津を中心とする奥羽越諸藩関係者が立ち上げた奥羽越鉄道の合併によって昭和9(1934)年に設立された会社. 浦和の企業となるのは専らこの合併後だ.

 

現在のさいたま市域に後に奥武鉄道の一部となる中山道電軌の路線が開通したのは明治26(1893)年、今からほぼ120年前、ちょうど日本鉄道の上野~熊谷間(現在のJR高崎線の一部)開通から10年後であった. 中山道電軌線開通に当たっては浦和から先大宮を通るか与野、川越を通るかで議論が分かれ、鴻沼低地越えや荒川架橋の費用の問題から当時埼玉県最大の都市であった川越に立ち寄ることを断念し大宮経由で上尾に至る経路を選択したことは第4回の話で触れている. 現在のさいたま市域には南から順に六辻、浦和坂下、浦和中央、元府趾、領家、木崎、武蔵大原、天沼、氷川前、北大宮、土呂(現在のJR土呂駅とは無関係)の各電停が設けられ、特に北足立郡役場にも近い場所に設けられた浦和中央電停は開業当初から駅の照明に当時最先端の電灯を採用したモダンな内装を誇示し「中央駅」と呼ばれて親しまれた. また大宮氷川神社参詣の玄関口として開業した大宮の氷川前電停もおもに休日を中心に参詣客で賑わったという.

 

しかし明治27(1894)年に日本鉄道の大宮工場が開設されると次第に北足立郡大宮町は日本鉄道の企業城下町としての色彩を強めて行き、競合路線である中山道電軌との間に度々軋轢を生むようになる. それが表面化する第一陣が明治37(1904)年の第一次中山道電軌移設騒動であり、中山道電軌による町道上を含む併用軌道を利用した日本鉄道大宮駅への乗り入れ計画を大宮町議会が阻んだのである. 第二陣は昭和4(1929)年に開業した総武鉄道(現・東武野田線)からの連絡客を巡る官営鉄道との争いの中で、同7(1933)年に大宮町議会が中山道電鉄の運行差し止め決議を出したのだ.

 

■自治体や既存鉄道の思惑に揺れる奥羽越鉄道南進計画

こうした中山道電軌と北足立郡大宮町のトラブルが続く中南進を続けてきたのが会津発祥の奥羽越鉄道だ. 奥羽越鉄道は昭和6(1931)年に下総境まで開業し、日光東街道鉄道(現・奥武宇都宮日光線)に乗り入れる形で利根川を渡り関宿、野田町まで乗り入れを開始していたが、同時に関宿から分岐し東京市内への南進計画を策定していた. 奥羽越鉄道の南進計画は関宿~野田市間を通らずに都心に抜けるルートの開拓に外ならず、日光東街道鉄道の猛反発を受けるが、関東大震災(大正12[1923]年)後の不良債権処理に加えて野田町駅の移転(昭和4[1929]年)に伴う出費が重なり深刻な経営難に苦しんでいた日光東街道鉄道は設備投資の好条件を呑むかわりに奥羽越鉄道に吸収され、昭和7[1932]年にそのたった16年間(路線開業からはわずかに9年)の歴史を終えるのだった.

 

この時点で奥羽越鉄道は関宿から東京市内を目指し中山道電軌に接続する3つの延伸ルートを候補に挙げていた.

 

A. 杉戸駅(現・宮代杉戸駅/東武動物公園駅)を経由しいずれかの場所で北総鉄道岩槻町駅の東側をかすめて南下して大門村、鳩ケ谷町を経由、川口町に至り川口町駅で官営鉄道と接続した上で戸田村内にて中山道電軌に乗り入れ府内へ到達.

B. 杉戸駅から岩槻町駅を経由し浦和町に至る. ここで中山道電軌に乗り入れて府内へ直通する.

C. 杉戸駅から岩槻町駅を経由し大宮町内へ乗り入れ、中山道電軌に乗り入れて府内へ到達.

​昭和7年当時の中山道電鉄と、奥羽越鉄道の延伸三案のルート. この時代埼玉県南部で市制施行していたのは川越のみであり、京浜電車の延伸によってようやく川口、浦和、大宮の人口が伸びつつあった時代である. 日光御成道沿いの鳩ヶ谷、岩槻と浦和や大宮の規模の差も現代ほどではなかった. 

​地図出典:国土地理院地図・空中写真閲覧サービス

平成24(2012)年の地図に奥武鉄道を乗せてみる. この間川口、浦和、大宮の市街が大きく成長した一方で鳩ケ谷や岩槻は県内における立場を弱め、川越は商都として栄えた明治期の街並みを留め観光都市として生まれ変わった. 
​地図出典:国土地理院地図・空中写真閲覧サービス

どの案も最終的には中山道電軌に乗り入れることで荒川架橋の手間を省くという、利根川を渡るために日光東街道鉄道を合併した奥羽越鉄道らしい手法であった. A案はすでに敷設免許を有していた武州鉄道と線路を共用するもので運用の効率化という意味でメリットがあった. しかし武州鉄道が川口町駅への乗り入れを断念しわざわざ官営鉄道と並行して荒川を渡った先の赤羽での官営鉄道接続を予定していたことからも分かるように、早くから市街化の進んでいた川口町中心部にはすでに軌道を敷くスペースが確保できそうになかった. 岩槻以南の多くの区間で武州鉄道の計画ルートと重なることになるが、武州鉄道としても奥羽越鉄道が荒川架橋を含む重要箇所の投資を担ってくれるのであれば奥羽越鉄道からの列車乗り入れも吝かでないと受け入れる姿勢を示したと記録が残る(実際、東京府に近い側の収益増に経営への期待を寄せる武州鉄道としては、広範囲から旅客を集められる奥羽越鉄道乗り入れは渡りに舟と映ったようである). また計画線が通ることになる鳩ケ谷町からも熱心な誘致を受けた.

 

B案ではA案に比較して奥羽越鉄道の単独敷設部分が長くなることが難点ではあったが、北総鉄道と岩槻町駅で接続するためたとえそこから先の建設に時間を要したとしても岩槻町、大宮駅経由で総武鉄道、官営鉄道に接続して東京市内への連絡輸送が可能になることや、中山道の宿場町の東外れに作られた当時の浦和駅周辺にはまだ貨物取り扱いを含む鉄道用地を確保するだけの余裕があり特に東側からアプローチする場合既存の市街地を通らずに浦和駅に到達できることも利点と映った(逆に川口町では官営鉄道川口町駅東側に旧来の市街地があるためすでに貨物用地がとれず、武州鉄道も貨物取り扱いのために蕨宿から離れた官営鉄道蕨駅に支線を伸ばすことを計画していた).

 

C案は総武鉄道(現・東武野田線)と岩槻町~大宮町内間で並行することになり、しかも中山道電軌に乗り入れる場合大宮駅ではなく氷川前駅に入ることになるため総武鉄道にそのまま乗り入れるというわけにもいかず、東京府内に達するまでの到達距離が伸びることとも相まって奥羽越鉄道の社内からは慎重論が出た.

 

奥羽越鉄道の南進計画が埼玉県内に伝わると、県内各地ではそれぞれの思惑での誘致・反対活動が活発化する. 鳩ケ谷町は経営難から南進が進んでいなかった武州鉄道と合わせて町内への鉄道誘致に弾みをつけようと特に熱心に誘致活動を行った. また、一方で中山道電軌に対して官営鉄道の経営を害するものとして排斥運動を展開していた官営鉄道城下町である大宮町は、他方で奥羽越鉄道に関しては官営鉄道と近距離区間において競合するものではないため、大宮町をさらなる交通結節点とすべく積極的に誘致を行い、むしろ中山道電軌と接続させず官営鉄道大宮駅に終着させるべく誘致活動を展開、奥羽越鉄道の一部役員の買収や奥羽越鉄道への出資を願い出るなど、強硬な手段に打って出た.

 

他方川口町や浦和町では奥羽越鉄道延伸に慎重な意見が多数を占めた. 鳩ケ谷ルートで奥羽越鉄道、武州鉄道と官営鉄道の結節点となるはずの川口町では日光御成道の宿場から発祥した市街が官営鉄道川口町駅の東側に位置するため、奥羽越鉄道や武州鉄道が伸びて来るとこの市街に蒸気鉄道が軌道を敷くことになる. 鋳物工業で栄えていた市街では街中への新たな軌道敷設に対して否定的な意見が多く出たのは当時としては頷ける. Bルートで奥羽越鉄道と中山道電軌の結節点となる浦和町では奥羽越鉄道が延伸して来た場合既設の中山道電軌がこれと接続すべく移設されることが計画にあり、旧宿場の中心付近に設けられた浦和中央電停が街外れの官営鉄道浦和駅付近に移設されることに対する反対運動が展開された. この中山道電軌移設に関しては、中山道電軌に乗り入れると同時に官営鉄道に接続する貨物ヤードを設置したい奥羽越鉄道側が求めていたものであり、当然中山道電軌側も難色を示した.

 

■奥羽越鉄道の延伸は中山道電軌との合併という目標のため、県の後ろ盾を得て浦和ルートを選択

奥羽越鉄道としては武州鉄道と軌道を共用できるA案(大門、鳩ヶ谷、川口町、戸田ルート)ないし官営鉄道接続駅の建設がしやすいB案(岩槻、浦和ルート)を特に検討していたとのことである. そこで決定打を与えたのが埼玉県の政界による判断であった. 大正12(1923)年の関東大震災以降東京、横浜で被災した人の一部が埼玉県に移住を始めていた. 特に高台の安定した地盤を有しこの時期に埼玉県の「耕地整理事業」という名目の街区整理事業によってそれまでの宿場町から外側に展開する新市街の造成が始まっていた浦和町には東京、横浜からの移住者が多く入り、中には画家を中心とする文化人も多く、江戸時代以来の宿場町の名残を残していた浦和が「文教都市」として知られる現代につながる近代都市に換骨奪胎する契機となっていた. 昭和7(1932)年9月には官営鉄道の京浜電車が大宮駅まで延伸開業し電車による高頻度運転が開始されることで川口、浦和、大宮と東京府内との往来はさらに便利になった. まだまだ郊外の趣を残しながらも東京の近代文化の中心地である上野へ出やすくなった浦和には耕地整理によって造成された地区に画家や彫像家が集まって住み、アトリエ町を形成して別所沼などの自然や埼玉会館など当時最先端の西洋建築を題材とした作品を残して行くのであるが、同時に官営鉄道は電車運転が始まったことで浦和駅への長距離蒸機列車の停車を止めてしまうのである. 当時の浦和ではすでに日常の鉄道利用も多く昭和5年度の時点で浦和駅の乗員数は全国でも17位と大きく躍進していた. 近代県都としての都市建設が進む中で長距離列車網から外された浦和では官営鉄道に対する長距離列車停車要望が高まり、埼玉県議会でも鉄道省に対して停車の請願を決議、請願を行っている.

 

こんな時期に奇遇にも埼玉県知事に就任したのが、下野国大田原出身の福島繁三だ. 大田原町を中心とする地方鉄道である東野鉄道は農作物輸送のほか後には金丸原の陸軍飛行場の軍事輸送にも従事する鉄道であったが、この時期既に奥羽越鉄道から乗り入れを受け入れ、密接な関係を築いていた. 埼玉県議会での官営鉄道長距離列車浦和駅停車請願を受け、福島は東野鉄道の伝手を得て奥羽越鉄道執行部役員に接触、奥羽越鉄道延伸に当たっては浦和に中山道電軌との結節点を設けてくれないかと持ち掛ける. これは福島としては自身の出身地と浦和を直接結ぶ鉄道ができるという個人的な希望もあっただろうが、何より官営鉄道に対して浦和に長距離列車を停めさせるための動機になるだろうという期待もあった. 奥羽越鉄道としては一方で鳩ケ谷川口ルートを念頭に置いた武州鉄道との協議も進めていた中であり、浦和ルートは武州鉄道との交渉が難航した際の安全策という位置づけさえあったが、ここで福島から決定打となる一言を得る. 「奥羽越鉄道が然るべきルート選定を行うのであれば埼玉県として奥羽越鉄道と中山道電軌の合併を後押しすることも可能だ」と. 実はこの時期すでに東京市電への乗り入れを行い東京市内への交通利便性から利益を上げていた中山道電軌は、1372mmから1067mmへの改軌や車両規格の大型化を求められる奥羽越鉄道との合併には後ろ向きであったとされる. 奥羽越鉄道としても中山道電軌にとって利益になる合併話でないことは重々承知していたためたとえ武州鉄道と軌道を共用して川口町、戸田村に至ったとしてもその後の中山道電軌乗り入れができるかどうかには今一つ自信を持っていなかっただろう. そこを埼玉県がお膳立てしてくれるというのであればこれ以上に助かる話はなく、福島からの一言を得て奥羽越鉄道は武州鉄道との交渉を一方的に中断、浦和ルートでの建設を進め昭和9(1934)年に関宿~浦和間を一気に開業するのだった. なお奥羽越鉄道乗り入れによる増収に期待を寄せていた武州鉄道はこの後昭和11(1936)年に武州大門から神根までの延伸を行うもののその後は資金繰りがつかずに昭和13(1938)年に廃線に追い込まれてしまう. また中山道電軌はこの間に中山道電鉄に改称していたが、埼玉県からの圧力を受けて奥羽越鉄道との合併に際して浦和付近の軌道移設を余儀なくされ、旧浦和宿の中心に置かれていた浦和中央電停は惜しまれつつ失われた. 浦和宿内にある古刹、玉蔵院の境内を貫くように敷設されたかつての中山道電軌の軌道跡は現在「玉蔵院通り」として整備されており、旧中山道のすぐ裏手に不自然に並行して市街地を貫きながら、市民の散歩道として親しまれている.

 

また奥羽越鉄道の浦和延伸と奥羽越鉄道、中山道電鉄の合併による奥武鉄道発足といった経緯の中、奥羽越鉄道の誘致のため買収工作を含む様々な手を打っていた大宮町は報復措置として街区整備名目での中山道線の宿外移転を決定、会社合併の混乱の時期に奥武鉄道中山道線となった旧中山道電軌線は大宮宿から東側への移転を強制される. さらに官営鉄道との結びつきの強い大宮町ではその後も官営鉄道による町への特別な便宜の誘致を展開、福島県政で期待された浦和駅への官営鉄道長距離列車停車は叶うことはなく官営鉄道、国鉄による主要列車の浦和通過は後々まで続くことになる.

昭和4年と2018年のさいたま市域の地図に奥武線のルートを表示してみる. 昭和9年には浦和、大宮でそれぞれ軌道変更が行われたが、一方は奥羽越鉄道、官営鉄道と接続するための宿場東端への移設であり、他方は町議会による排斥決定であった. 昭和4年時点で浦和町内では耕地整理名目の新市街造成によって街道筋に沿って短冊状に広がる旧市街を取り囲むようにグリッド状の市街地が形成されているのが分かる. 現在奥武大宮を名乗っている足立大宮駅は今でこそ住宅の密集する中に位置するが、当時は宿外に外れた農地の中にぽつんと設けられ氷川神社参詣以外には使いづらい駅だったと想像される. 
​地図出典:国土地理院地図・空中写真閲覧サービス

この間昭和8(1933)年には川口町と青木村、横曽根村、南平柳村との合併によって新生川口市が誕生. 埼玉県内では旧来の城下町であり商都である川越や県北の要である熊谷に次ぐ3番目の市制施行であった. また奥武鉄道が発足した昭和9(1934)年には県庁所在地の浦和が単独市制施行し、川口、浦和に市制施行で先を越された大宮町では町の政治に対する不満が爆発する. 官営鉄道の工場が設けられ農家の次男、三男を中心に鉄道産業に従事する人が増えていた大宮町はその後も常に官営鉄道、後には国鉄と密着して鋳物工業の川口に次ぐ県内有数の工業都市として街づくりを行う歴史を歩むことになるが、昭和初期にはすでに旧来埼玉県最大の商都として賑わっていた川越の地位を奪おうという気概も見せるようになっていた. 急速に人口が拡大する川口、浦和に市制施行で先を越され不満を訴える町民に対し大宮町はいわゆる県庁移転運動を展開することで不満のガス抜きを始める. ちょうど奥武鉄道が発足し浦和町が市制施行した昭和9(1934)年には同年11月に天皇の埼玉県行幸が行われ、官幣大社である大宮氷川神社に親拝した後に天皇が浦和の埼玉県庁に臨幸することとなった. ただし当時の埼玉県庁には天皇の御座所として使用できる部屋がなく、御座所の新設や車寄せの改築を含む県庁舎の改築が決定されるのであるが、大宮町はここで県庁舎の改築を要することを理由として氷川神社のある大宮町への県庁移転を唱える. これまで埼玉県内における県庁争奪戦といえば専ら浦和と熊谷によるものであり、その背後には県南部を勢力圏とし県議会で多数派を構成する立憲改進党勢力と、熊谷、秩父地方を含む県北で圧倒的な支持基盤を持つ自由党の対立があった. しかしここに来て埼玉県の県庁位置問題は県内を二分する二大政党の抗争を越えて都市同士が発展の基盤として政庁の立地を奪い合うという新たな側面を見せることになり、新市街が拡大し京浜電車の延伸も相まって急速に拡大する浦和と相変わらず県北では重要な位置を占める熊谷に加え、やはり京浜電車延伸で交通利便性を拡大させ総武鉄道の開業など周辺地域と連絡する鉄道開業で勢いをつけた新興商工都市大宮がプレーヤーに加わり、旧来の中心都市であり埼玉県内初の市制施行都市でもある川越をよそに戦後の埼玉県庁焼失事件とその後の移転騒動へとつながる泥仕合を演じるようになっていくのだ.

 

なお、歴史的には川口とは別の日光御成道の宿場であったが昭和期を通じ鉄道がとうとうやって来なかった鳩ケ谷町は交通の中心が鉄道になる中で緩やかに衰退し、昭和15(1940)年には国策によって川口市に編入されてしまう. 戦後の昭和25(1950)年には住民投票によって川口市から分離独立、平成13(2001)年に至ってようやく埼玉高速鉄道が開通すると急速に人口が増加し陸の孤島としての汚名を返上するが、同時に旧来の川口市との間の確執に執着しない住民も増えたのだろうか、平成23(2011)年には鳩ヶ谷から申し入れた合併協議を経て川口市に編入合併され消滅するのだ. もし奥羽越鉄道が鳩ヶ谷ルートで開通していれば鳩ヶ谷市が独立を保つだけではなく、鳩ケ谷を避けて交通の便が良く順調に発達していた川口市への編入合併を選んだ安行村も川口ではなく鳩ヶ谷への合併を選択していたかもしれない. そんな想像をしながら埼玉の都市を育んだ鉄道に乗ってみるのも一興だろうか. (続く)